雰囲気症候群? その2 (哲学的に行こう!)

先日、初めてnoteにブログを書いた。題して『雰囲気症候群?』。

https://note.com/aki_20201012/n/nabc02a6f6d19
小学生に国語の勉強を教えていて感じた疑問を書き留めた。
教えている時、勉強を進める・深めるということと、子どもの素直で正直なリアクションとの間に齟齬を感じることが、ままある。

今回は、2年生の授業で、気になることがあった。
授業の課題は、ずっと取り組んできたリンドグレーンの名作『ロッタちゃんのひっこし』。
https://www.kaiseisha.co.jp/books/9784035320104

第一次反抗期(?)の子どもが、ママと猛烈な喧嘩の末にお隣さんの物置に家出する。しかし、いかんせんまだ5歳児のこと、夜になり泣き出してしまった。そこに、絶妙なタイミングでパパがお迎えに来るという、児童文学の中でも屈指の名場面だ。みんな、自分を当てはめて読んで、グッときてしまう(生徒だけでなく、ご両親も)。
そこで、感想を求めたところ。
「パパが迎えに来てくれたのが、優しくて良かった」
「家族のきずなを感じた」

家族のきずな、とな。随分、大人なボキャブラリーである。本当に、意味わかって言っているのだろうか?そこで「きずなって、なんのこと?」と尋ねると
「心のつながり!」
「心の結びつき!」
と妙にサクサク、確信を持って返答してくる。

自分の中で、直観的警報が鳴り渡る。
なんだか、言い慣れた感じ。
一文一文確認しながらだんだんに文脈の理解を深めることをしないで、「ああ、これは、きずなの話でしょ」と雰囲気で決め付けている印象だ。
自分は、具体的にパパがやった事をひとつひとつ確認して、その意図から、それだけの事を我が子の為にせずにいられない親心をあぶり出す授業プランを用意していた。
しかし、子ども達の「知ってる知ってる!」という勢いはすごくて、そんな繊細な議論の積み重ねができる雰囲気ではない。

急遽、方針変更。
ここはひとつ、哲学的に行こうじゃないか。
キミたちが主張する、「きずな=心の結びつき」とはなんぞや?

「心の結びつきって、どうやるの?結びついてたら、つながってるよね。先生が今日着てるセーターは、こんな風に結び目をいっぱい作っていって、つないである(と、網っぽい目の粗いセーターを見せる)。ヒモや糸があるから、結ぶことができる。じゃあ、心にヒモがあるの?」
「うん、そう!心にヒモがある!!」
「じゃあ見せてよ!」
「…………ない」
「あっ、空気は見えない!空気みたいに透明なヒモがあるんだ!!だから見えないんだ!!」
「でも、透明でも空気は絶対ここにあって、だからお風呂とかでタオルふんわりさせて沈めると、中に空気あるって見せられるでしょ?心のヒモも、もしあるなら、何かのやり方で見せられるはずでしょ。どうやったら、見せられるの?考えてよ。」
「うーん………」
「あ!わかった、テレパシーだ!」
「そうだテレパシーだ!!」
「じゃあ、今、先生にやってみせて!」
「…………できない」

見ようによっては単なる屁理屈のこねあいだ。
でも、これなら、一足飛びの決めつけではなく、一歩一歩確かめながら考えを進める経験にできる。話題は、物語からずれてしまったけど、でも「キチンと考える経験」の方が、予定調和的に「きずな」という言葉に着地するより、読解力の肥やしになる。
卑近な観点だけれど、昨今の中学受験問題には、やたら哲学が出てくる。塾の先生としてはそのことも少なからず念頭にあった。低学年のうちから、理屈っぽさへの耐性を上げる。それは、将来に渡ってこの子たちを助けるだろう。

自分自身もここ2、3年、随分、哲学の本を読んだり講座を聞きに行ったりした。混沌とした時代の変化の中、それは、汲めども尽きせぬ「問題を理解する知恵」の宝庫に感じられた。
それで今年読んだ本で、偶々、心脳問題というものに触れていた。「心」とは、実際どこにある何なのか?
『脳がわかれば心がわかるか 脳科学リテラシー養成講座』山本貴光・吉川浩満
http://www.ohtabooks.com/publish/2016/06/06152428.html
『それは私がしたことなのか 行為の哲学入門』古田徹也
https://www.shin-yo-sha.co.jp/smp/book/b455657.html
人間を心と身体に分けて考える哲学者デカルトの心身二元論。それでは、身体が精密な機械のようなモノだとしたら、心は、その機械の中の幽霊みたいなモノなのか?そうした「心とは何か」の歴史的変遷が、この2冊両方に出てくる。
「それは本当か?」とギリギリ突き詰める、議論の緻密な連鎖と前進は、実際、読んでいて胸が熱くなる。
デカルトは、1650年に亡くなってる。17世紀、科学が興隆した時代、近代の幕開けだ。21世紀の子ども達には、キチンと近代から立ち上げた教育をこそ、与えたい。

また、最近読んだ永井均『子どもための哲学対話』には、「何が正しいか、過去の議論を知っている人こそが知的権威で、間違った内容は、たとえ大勢が支持したとしても、やはり間違いである」(自分の要約)とあった。
https://bookclub.kodansha.co.jp/product?item=0000178651

子どもの、こちらが曖昧な時に押し込んでくる勢いはすごい。裏付けとなる議論を知った上で確信を持ってリードすることは、とても重要だ。
そんな時、難しい哲学書や専門的知見を噛み砕いて書いてある本の存在は、実にもって有り難い。

さて。今回の一件で好ましく思えたのは、「心のヒモを見せられない」となった時、それでも、「心のヒモは、ない」とは言わなかった、S君。
他の子は、見せられないじゃんと私から詰められたら、「心のヒモはない」と降参してしまった。
多分、降参した子たちは、なんとなくみんながそう言ってるからそういうものだろう、くらいだったのではないだろうか。小学2年生なら当然のことだ。
S君は、自分の実感として「心と心が結びついてる感じは、ある」と思ったのか。あるいは、見えない何かをどうやって「ある」と言ってみせるかに、興味があったのか。

自分は今回、「心のヒモはある、も、ない、も、ふたつ、別の考えだねぇ。ふたつの別々の考えが、ある。」とまとめた。
どちらかのアイデアを否定して、空気で誘導するようなことはしたくなかった。
また、子ども達にとって「正解はひとつではない」という経験にもなったと思う。

かくして、勉強は、右往左往しながらも進むのだ。たとえ匍匐前進のごとくであっても。

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