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ガザに、即時停戦を。

 旧Twitter(X)で、ガザのあまりの惨状と、(自分が原因のくせして)それとはあまりに対照的なイスラエル公式系の軽薄なツイートにキレて、怒りにまかせたリプライを書いた瞬間に、アカウントをロックされてしまった。文字通り一瞬にしてだった。
 怒りの表明自体は、例えばバイデンやブリンケンのアカウントに対してもこまめに行っているが、こちらはそんなことにならない。そこまでキレてないからかもしれない。それにしても早かった。Twitter運営もかなり神経質にやってる印象を受けた。

旧Twitter(X)より
https://x.com/nournaim88/status/1736382192475938844?s=61&t=Ym9VW1gS-GA2FDnNvMgxfQ

 ロックされている間はツイートはもちろんRTもいいねもできない。それで、久しぶりにスマホは置いて、しみじみと読書をした。なんとなく手にしたのは、伊藤亜沙が利他について書いてる文章。

 他の執筆陣も興味深いが、とりあえず「はじめにーーコロナと利他」と第一章「「うつわ」的利他ーーケアの現場から」を読んだ。著者の筆致は、クールな視点からのクールな論説によるハートフルな訴え…という感じだった。心動かされるし、頭も気持ち良く運動させられる、説得的な内容だった。今読むべき本だった。買って積んでおいてよかった。
 現代のアメリカを筆頭とするいわゆる先進国は、実に広く深く「数値化とそれによる管理/計画」に染まっており、それは予想に反して利他概念にまで及ぶ。その浅薄な合理性が、どのように弱い立場の個人個人を追い込み、スポイルするか。そうである時に、あるべき利他とは何か。
 同書ではこれらのことを、昨今の具体的な社会事情を提示しつつ、哲学界隈の諸説を適宜引用しながら、順を踏んで明らかにしていく。

目次。なんとなく、雰囲気伝わらないですかね…

 特に最後は胸を突かれた。

 一七世紀の哲学者トマス・ホッブズは、人間の自然状態を「万人の万人に対する闘争」と言いました。しかし本当にそうなのか。あまりに競争の側面にばかり気をとられてきたこれまでの人間のあり方を利他的なものにしていくためには、自然に対するとらえ方から考えなおしていかなければいけないのかもしれません。

第一章「うつわ」的利他ーーケアの現場から 最終段落

 このホッブズの有名な句には個人的な思い入れがある。2018年頃、自分は塾の小学生たちに苦慮していた。常に大声で罵り合う。褒められた子に意地悪をする。文脈を汲むことができない。どうやったら、そんな子どもたちに、それこそ利他的な空気のある勉強の場を提供できるのか?困り果てて、遅まきながら哲学を齧りはじめた初めの頃、國分功一郎『近代政治哲学:自然・主権・行政』(ちくま新書)で出会って「まさにこれだ」と心動かされた、自分の課題そのものだった。
 その先を見通せ、との伊藤の言葉は、とてもラディカルに響いた。

 さて。毎日毎日、ガザ(及び西岸)情勢を追っている自分にとって、伊藤の提示する[数値化/心]という二項対立は、そのまま真っ直ぐに村上春樹の「卵と壁」ーー2009年ガザ侵攻時の、エルサレム賞受賞スピーチーーへと繋がっていく。

 私がここで皆さんに伝えたいことはひとつです。国籍や人種や宗教を超えて、我々はみんな一人一人の人間です。システムという強固な壁を前にした、ひとつひとつの卵です。 我々にはとても勝ち目はないように見えます。壁はあまりにも高く硬く、そして冷ややかです。もし我々に勝ち目のようなものがあるとしたら、それは我々が自らのそしてお互いの魂のかけがえのなさを信じ、その温かみを寄せ合わせることから生まれてくるものでしかありません。
 考えてみてください。我々の一人一人には手に取ることのできる、生きた魂があります。 システムにはそれはありません。システムに我々を利用させてはなりません。システムが我々を作ったのではありません。我々がシステムを作ったのです。

『村上春樹 雑文集』より

 村上春樹が詩的な言葉で表現した意味内容は、伊藤亜沙の説明するところとシンクロして見える。もっと言えば、2009年当時より、システムは私を取り囲みすぐ喉元まで迫ってきているようだ。
 ガザの話に戻る。最新のミサイルが、うなりと共に高速でビルに突っ込む時、そこにいる人間はどうなるのか?多くの写真から、広島長崎の被爆の絵は写実的だったとわかったし、風刺画で描かれるバラバラの人体は漫画的表現ではなくリアリズムと知った。
 市街地に入るイスラエル兵と車両の列が、正直、害虫の行列に感じられた。
 そして、イスラエルの戦車がパレスチナのレジスタンスによって爆破される生々しい動画を見た時。「…でもこの分だけ、ガザへの暴力が減るよね?」。それはつまり、自分がごく自然に、人間を数量に置き換えて考えていたということ。「戦車の中にいる人はどうなるんだろう?」という至極まっとうな疑問は、自動的な数値化思考により、芽生える前に堰き止められる。そこから、パレスチナ人を愚弄するイスラエル兵の動画に対して「こいつ死ねばいいのに」との言葉を書きつける(そしてロックされる)のは直ぐだった。
 自分もまた、人間の生命を、数量として捉えうる。ロック中に読んだ伊藤亜沙の利他論は、そのことを気づかせてくれた。
 そして、そのように状況を数量化して考えたら、簡単に、戦争というシステムの一部に自分がなってしまった。つまり、具体的な誰かであるイスラエル兵の死を、抵抗なく受け入れ、望みさえする。戦闘拡大への心理的ハードルが、極度に低くなってしまう。それはいわば、知らぬ間に、自分の魂を戦争というシステムに明け渡していたということだ。極めて危険なことだ。村上春樹の言葉が重く迫る「システムに我々を利用させてはなりません。」

 そんなことを考えている間にも状況は進行する。
 イエメンの、紅海でイスラエルへの商船を停止させる措置に対抗して、欧米諸国が軍艦を差し向けるという。その作戦名が 'Guardians of Prosperity'(繁栄の守護者)。システムの権化のような名前だ。
 ガザへの空爆も止まらない。イスラエル軍が包囲した病院に最後ブルドーザーで入り、人々を生き埋めにしたというニュースや、連日、何百人も逮捕監禁して拷問というわけのわからない人権蹂躙が続く。そのうえ人為的な飢餓と伝染病の蔓延が始まっているらしい。
 フランスは、殺害された大使館関係者がアラブ系だから黙祷しないとか、イギリスは、キリスト教徒がイスラエル軍スナイパーに銃殺されても武装解除しないレジスタンスのせいで仕方ないとか、ホワイトハウスはもうガザを話題にもしていない。
 狂っているとしか言いようがない。

ガザに、即時停戦を。
Ceasefire.
Free Palestine.

↑パレスチナ🇵🇸についての資料です。
ご参考まで。

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