哲学がくれた教育の展望 その2

これは、前回書いた、子どもの教育の底が抜けた問の続き、その後発見していった自分なりの教育方法のお話です。ご高覧いただけたら。

https://note.com/aki_20201012/n/na1c5efa08180

異次元の問題

波乱に満ちた2020年か終わって行こうとしている。
今のところ、ウチの塾は、あらゆる意味で無事である。しかし、世間を見れば、コロナ禍も経済も、全く予断を許さない状況だ。

見通しの立たない今のこの状況を奇貨として、子どもとは何か、教育とはどうあるべきか、根本から見つめ直すべきだ、と自分は思っている。

それが、大人としての責務ではないか。

2018年、これまでの授業ノウハウが通用しない状況が発生し、2019年には「底が抜けた」というか、どちらが上下方向なのか、前後左右なのか、進んでいるのか退いているのかすら判然としない感じになった。
例えば、(話を若干変形して書くが)初めて「子どもの鬱」の相談を親御さんから受けた。これまで、ADHDとか、昔なら「やんちゃ」「落ち着きがない」と言われたタイプの子の相談は多かったが…悩みの質が全く異なる。後者(つまり今まで受けた相談)は、子ども自身の意思自体は健康であり、ただ周囲との折り合いだけが問題なのだが、前者(つまり今回の相談)は、「生きていくのが怖い」「未来が怖い」というような悩みを子どもが訴えている、という話だった。
あるいは、また別のケース(これも細部は変えているが)。漢字を覚えない、文章理解を無数の「→」で表現して、教えても教えても記憶から抜けていくような子と、マンツーマンで勉強の考え方や感じ取り方を話し合っていたら「実は自分は、幽霊が見えるんです」と打ち明けられたり…。

ウチはあくまで塾であり、中学受験を通じて深い学力を身につけることを目的としている。
「深い学力」とは
・辞書を引ける、文法に従ってある程度複雑な文章を読める、といった基礎力を持ち
・抽象的な内容を、具体的に想像し
・自分なりの意見や感想を、手短かに整理して伝えられる
ということだ。結構、要求が高い。この目標を、「子どもの試行錯誤を尊重する」というやり方で、勉強を面白がる子に育てることで達成してきた。
だがしかし、2019年、そうした目標へと子どもを向かわせていく困難の「次元」が、今までとは、全く違ってしまったのである。

哲学から学んだ教育の方法

私が「哲学から学んだ教育の方法」とは、言い換えれば、「対話の技術」という事になろうと思う。
・相手の思考の「一歩のサイズ」を感じ取り
・それを踏まえて、話を先に進める
という事だ。

教えるというのは、指導する側には着地点のイメージがある(逆に、無いなら何を教えるつもりだということになろう)。
そして、そこまで導くルートのイメージも、大体ある。
しかし、一方的にそれを喋るのではなく、常に子どもに問いかけ、子どもからの答えを受け取り、その答えから「子どもにとって理解可能なサイズ」を把握して、話を進めるのだ。

「子どもにとって理解可能なサイズ」とは、その子の
・読み書き能力
・知識量
・通俗的な常識
の事である。それを察知して、そのレベルに合わせて、説明を分節する。
その「子どもに合った1分節」から、説明の運びが遊離してしまうと(つまり、大人にとって言い易い言葉使いで、『今日はここまで進みたい』みたいな大人側の都合で説明が推し進められると)、いくら正しい説明であっても、子どもは、せいぜい形式的になぞるのが関の山で、内容が身に付かない。
その「子どもサイズに沿う」というルールの下、子どもとやり取りし、試行錯誤させ、注目すべき点に気付かせ、納得させて、話を前に進める。
同時に、指導する側は、着地点や現在地のイメージマップを頭の中で保ち続ける必要がある。さもないと、ただ子どもに合わせることが目的のようになり、そもそも今何を学ばせようとしていたのかを見失ってしまう。

この方法なら、低学年の、うかとすると学級崩壊の様相を呈してしまう時期から、高学年の、内面的な難しさを抱え始める時期にまで、それぞれの年齢に合わせて、対応することができる(当然、1分節のサイズが全く異なるが。しかし、『相手の度量に合わせる』という基本的な発想は、同じである)。
さらに重要なことは、子ども自身も、自分が感じたことをスタート地点にして自由に発想し、積極的に(会話であれ文章であれ)アウトプットして、他者とコミュニケーションしていく方法を身につけることができる、ということだろう。(中学受験も、こうしたことの一つの形態として経験される。)

(学年ごとの具体的な話は、以前noteに書きました。改めてお読みいただけたら。)

https://note.com/aki_20201012/n/n749b73a33442 (小学2年生)

https://note.com/aki_20201012/n/nabc02a6f6d19 (小学3年生)

https://note.com/aki_20201012/n/n25ed11134d4f (小学4年生)

https://note.com/aki_20201012/n/n351fd4e6185e (小学4年生)

https://note.com/aki_20201012/n/n9edb3f8ab831 (小学5年生)

https://note.com/aki_20201012/n/n352ee4ff5e0a (小学6年生)

自分はどこでどう勉強したか

上述した内容は、恥ずかしながら、大学などの「正規の場やカリキュラム」で勉強したものでは全くない。基本的には、「少人数の個人塾」という現場で教えながら、試行錯誤の中から自分で編み出したものだ。
しかし、さりとて、「完全に自力で自己流」というのでもない。独学では、今自分が手にしている方法には、とても辿り着けなかっただろう。
2018年、子どもの教育の底が抜けたと感じた時から、自分自身も改めて勉強をする必要を感じ、何がいいのか探し始め、まずは國分功一郎氏の『中動態の世界』『100分de名著 エチカ』『近代政治哲学』『暇と退屈の倫理学』に出会い、読書会にも出席したりして、哲学にこそ、今の自分に必要な何かがあるのではないかと当たりをつけた。それからは、出会い頭に、「物足りない」「もっと何かないだろうか」と辿って行った結果、大変勉強になる「先生たち」に出会う事ができたのである。

まずは朝日カルチャー新宿『非哲学者による、非哲学者のための、(非)哲学の講義』の酒井泰斗氏と吉川浩満氏。

http://socio-logic.jp/nonPhilo/

この講座は「講師と受講生の双方向性」をモットーに、学ぶべき「哲学的」書籍の紹介に留まらず(それも大変有り難かったのだが)、受講生に「大人の、哲学的お悩みアンケート」の提出を求めて、それに対する講師からのレスポンス、そして更なるアンケート提出、という形で進む、大変ユニークかつ創造的な講座だったのだ。私にとってこれほど有難いものはなかった。私の今の教え方は、ここで学んだことがベースになっている。(2020年12月現在、全4期のうち第3期まで終了している。)
象徴的だなと思うエピソードを挙げるなら、第3期最終回、私の長い質問に対して吉川氏が「もうわかったと思っていた事を、振り返って、改めて解明する事の大切さ」とまとめて下さったことだ。この場合の「解明」とは、なんらかの原理に基づいてよくわかるように述べる「説明」と、対になる概念、とのことだった。
大人は、ついつい安全な説明をしたがる。しかし、子どもに必要なのは解明だ。私自身が、この講義で、その暗中模索のプロセスを体験的に学習することができた。
また、中心的に講義を進められた酒井氏のツイッター・アカウント(@contractio)は、ご自身の膨大な読書記録や、あるテーマに対するコメント、大学等での様々な公開講義や新刊の告知など、とにかく情報が潤沢芳醇で、日々チェックを欠かさないようにしている。同氏プロデュースによる過去のブックフェアの記録など、まだまだ、とても見渡し切れない。

そして、もう一つ、私にとって貴重な学びの場は、五反田にある『ゲンロンカフェ』だ。

https://genron-cafe.jp/

コロナ禍の為、今はネット配信の視聴のみだが、2019年、ここで様々な先生たちのお話を、終電を気にしながら伺えた事は得難い経験だった。
(非)哲学講義でもお世話になった吉川浩満氏をはじめ、山本貴光氏、古田徹也氏、大澤真幸氏…皆さん、今日現在の生き生きとした感情の動きで、先人達の叡智について語っておられ、ウィトゲンシュタインとか人工知能とか社会学といった、私の全く知らなかった世界への扉を開けて下さった。特に山本氏の「賢いコンピュータは失敗するコンピュータだ」「ゲームは、いかにプレイヤーに失敗させるか。プレイヤーは失敗から、そのゲーム世界を学ぶ」といったお話は、自分の教育観を直に更新し、力を与えてくれた。

こうして振り返ってみると、自分の実装した「対話の技術」は、私淑する諸先生たちとの生き生きとした対話(ないし、対話的体験)から学んだのだな、と気付く。
なかなか、活字だけでは、短期間で集中的に学びを前進させられなかっただろう、と思う。

私から見た哲学 〜思考の「一歩のサイズ」を決める営み〜

実は自分は若かった頃、哲学を敬して遠ざけていた。混沌とした、その時自分の感じている事に、厳然とした正解を与えられそうで嫌だったのだ。当時の私は、混沌を混沌のまま育てて行くような河合隼雄/ユングに夢中だった。
今、少し勉強し始めた哲学を、自分の目から見て言葉にすると、どの哲学者も思考の「一歩のサイズ」を決める営みをしているように思える。
前の時代の人が考えた一歩を、全然違うサイズで切り取る、するとその新しいサイズの一歩で構築された新しい展望が、開ける。その際大事なのは、自分の切り出した一歩のサイズを厳密に明確にすることで、共有可能なものにする、ということ。それで、対話の対象が開かれたものになる。
そして、対話の対象が開かれているということは、つまり、これは子どもの教育にとっても有効な「方法」になり得る。
そして同時に、子どもに対してその切り出しをやって見せる際、なるべく広い知識を持つこと。知識の広さが、例えばある著者がその時の課題をどう切り取っているか、という理解を支えてくれるし、そのバリエーションを多く知っていると、子どもの発想に対しても柔軟に向き合える。「うん、それアリだね」と。

この「一歩のサイズ」を、その都度適切に見定めて、子どもに教えるべき内容を理解したり、子どもと対話したりすること。
それが、今日現在、私の考える「教育の方法」である。

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