母というひと-049

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愛猫の死から数年後、さらに衝撃的な出来事が私に追い討ちをかけた。
それは、母が親とも神の代理ともしてすがって生きていた祖母の死。

20代半ばを過ぎた頃、よく晴れた日曜に窓際で心地よく過ごしていた時に、ふと

(あれ、おばあちゃんがこの世にいない)

と思った。
特に前触れがあったわけではない。
たださり気なく、ささやかな風が頰を撫でるくらいのさり気なさで、そう感じた。

アンテナを空へ投げて祖母の気配を探ってみるが、どこからも応じてくるものがない。

祖母は長寿で体もそこそこ元気だったが、病院に入院している間に家が火事になり、戻る場所を失ったため母がうちに引き取っていた。
毎年帰省するたびに祖母が家にいるのは、私にとっては嬉しいことだったが、ほどなく祖母は認知症を患って、言動が乱れて行く。

しばらくして、O県の施設へ入れたと母から聞かされてはいた。

でも、死んだなんて聞いてない。
私は慌てて母へ電話した。
「ねえ、おばあちゃん、もしかして死んだんやないと?」

確信があったのでズバリと聞いた。すると母はあっけらかんと答えた。
「へーよう分かったね。とっくに死んどるが」

リタの時より大きな衝撃だった。
絶句した。
返答の軽さに強烈な違和感を感じながら、戸惑いつつも「いつ」「どうして」と訊ねると
「知らん」と言う。「2ヶ月?3ヶ月前くらいかなあ」とか曖昧な、いい加減な返事ばかり。
そんなはずはないだろうと繰り返し聞くと、ようやく
「死体を見るのは怖いけん、死ぬ前くらいに一度お父さんに見に行ってもらった。その後は知らん」と告白した。

頭の中が真っ白になった。

祖母は母の生きるよすがではなかったのか。

しかし今、母の声の一部には微細な嫌悪が混じり、祖母の最期について話したくないニュアンスを隠そうともしていない。

「お墓はどこなん」
必ずまた会えると疑ってもいなかった私のショックは大きかった。
せめて墓参りくらいは行かなくては。そう思って聞いたが、返ってきたのはまた一言「知らん」。
最後にはしつこいと怒り始めた。
「全部B市の(母の兄)がしちょるけん(やってるから)知らんのじゃ」

ピンときた。
伯父と何かあったのだと。

「……本当に知らんの」
「知らんっちゃ。くどいねあんたも」
そう言えば、祖父の墓も私は知らない。
母も祖母も、何も教えてくれなかったし一度も連れて行ってくれなかった。
神だ仏だと言いながら、彼女たちは一番身近な人の供養を一度もしてない。少なくとも、していた記憶が私にはない。
この時初めて、祖母と母の大きな矛盾に気が付いた。

母は、そんな私の胸の内に気付きもせず、あっけらかんとした声で話し続けた。
「なんであんた分かったんかね。
 ああ、あんたはばあちゃん(祖母)によお可愛がられちょったけんな」

そう。私は、孫の中で一番可愛がられていたと自分でも思っていた。
そんな私が、祖母の死を知らされないことでショックを受けるとは思わなかったのだろうか。

頭のてっぺんから怒りか悲しみか分からないカタマリが噴火しそうになって、押さえ込んで無理やり電話を切った。


しばらく口がきけなかった。動けなかった。
ショックすぎて涙も出なかった。


日が傾いて西に向かい、雲がほんのりオレンジがかった頃に、やっと気持ちが少し落ち着いた。もう夕方だった。
祖母にたった今、何かしたいと思った。
あの世へ見送る何か、今すぐ私ができること。

そんなことに意味があるかは分からないけれど、西陽が入るキッチンの小窓に、水を張った小さな器を置いた。
祖母に、綺麗な水を送りたくて。
置いてから"死出の水"という言葉が頭に浮かんだ。
そんな言葉は聞いたこともないけれど。

夜になるまで惚けていた。
当時の恋人が帰宅して小皿に気付き
「なんかあった?神聖な感じするけどこれ」と尋ねてきた。

もう、血が繋がった母親よりも
他人である恋人の方が私の感性を理解してくれているらしい。
そんな現実に、失笑にも近いため息が出た。


その日以降、実家に戻るのをやめた。
家を出てから価値観も倫理観もおかしくなっていた私は、お金の無心の時だけ家に電話するようになっていて、"心の冷たい娘"は、とうとう両親にとってただの厄介者になったのだとも自覚していたので、色々とちょうど良い気がした。

もう二度と戻らない気持ちが固まったし、このまま縁を切って、ユクエシレズになろう。
それを半ば実行し始めていた。

そして思い出す。
私が東京へ出た翌年、母が遊びに来た時のことを。


「一週間くらいあんたんとこおって(あんたの家に居て)、あちこち見て回りたいけん案内してな」と母が言うから、勤務先の上司に相談して、食事に連れ出す店をあちこち紹介してもらっていた。
なのに、たった一晩泊まった、その翌日。
私が仕事から帰宅すると、部屋は真っ暗だった。
ちぎった紙切れに「帰ります」とだけ書かれたメモが置かれている。

まるで夫に愛想を尽かした妻が実家に帰ったような、妙な空気が漂う。
何かアクシデントが起きたのか、まさかまた兄が事故にでも遭ったのかと心配して実家へ電話すると、母のケロリとした声が「はい」と出た。

母が言うには、暗くて狭い部屋で一人でいるうちに、子供の頃の辛い思い出が蘇ってしまったそうだ。

「じゃあ会社に電話してきたら良かったやん。なんで黙って帰るんよ」と責める私に「ごめんごめん」と返してきた。
母のごめんは大抵、二回繰り返される。
心からの謝罪ではない。

「昔の狭い暗い家を思い出したらなあ、おられんくなったんよ。怖くてなあ」と言う。

ほんの数時間待てば私が帰ってくるのに。
せめて電話でもいいから「帰る」と告げてくれれば、私も納得できるのに。
しかし母には、少し我慢するとか、他人を心配させないように振る舞うとか、筋を通して行動するとか、そういった気遣いが皆無なのだ。

それ以降、母が東京へ遊びに来ることは二度となかった。


そんな記憶を重ねれば、愛猫の亡骸がどこで誰に焼かれたか分からなくても平気だったり、頼ってすがって助けてもらってばかりいた母親の死に目すら「怖いけん見たくない」の一言で避けてしまったり、死んだ父親を弔わず平気でいられたりする母の姿は、ある意味で一貫した行動を取っているとも言えるのだと思い至った。
『嫌なことからは一瞬でも早く逃げたい。
 嫌な思いは、出来るだけしたくない』
詰まるところ、これが母の終始一貫した行動原理だったわけだ。

私は家を出て何年も経ってようやく、母の本質を垣間見ることができたのかもしれない。


祖母は結局、若い頃に修験者から見てもらった手相の通りの人生だった。
子宝には恵まれたけれど、どの子供とも家族として一緒にきちんと生活する機会を持つことなく一人暮らしを貫いて、一人で逝った……。

厳しいばかりの人生だったのではないかと思う。
戦争を経験した人は、誰もがそんな人生だったのだろうけど。

(おばあちゃん)

呼びかけるが、もう返事はない。

(おばあちゃん。
 少しでも幸せな時間が、その人生にあった?
 少しでも、愛情を、貰ったり与えたりしたと感じられる時があった?
 そんな相手が、いた?)

もし魂というものが存在して、私が死ぬ時にまだ祖母が祖母のままでいたら、そんな事を聞いてみたい気もする。

きっと生温い生き方をしてきた私が言う「愛情」なんて、過酷な時代を生き抜いた人にはあまり意味のないものだろうけれど。

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