20歳が今後のSNS社会について考えてみた。
先日、おばあちゃんの家に行くと、机の上には山積みにされた年賀状があった。手書きや写真付き、イラストなど、時間のかかった“手紙”が届いていた。SNSが日常ではない世代の人達にとって、年賀状は友人の近況を知る貴重な機会なのである。
「年賀状」という言葉、何十年後かの僕が聞くと懐かしくなるほど“昔のもの”になっているだろう。それを助長するかのように、今年、僕は初めて年賀状を出さなかった。お正月に直筆のメッセージが友人から届くという特別感は、僕の場合、今年から無くなった。
いつでも繋がれる時代において、“手紙”は昔の道具になった。
昔の友人、一度しか会っていない知り合い、気になっている人、先輩や後輩、好きだった人、最近出会った人、みんながこの手の中に入っている時代だ。ストーリーに映る楽しそうな姿やTwitterの投稿、LINEをすれば、文字や動く絵と声付きで、友人の近況が知れる。世界中どこにいても、何をしていても、僕らは繋がっている。
年賀状が恋しくなることもあるのだろうな、僕はそう思う。「あけましておめでとう」はフォロワー全員に向けて一度にパッと言える時代において、一対一の繋がりは弱まっていると感じる。
新年の挨拶だけじゃない。
今日あった面白いこと、今日あった悲しいこと、今日あった楽しいこと、「○○ちゃん聞いてよ、今日こんなことがあったんだ」が、「みんな聞いてよ、今日こんなことがあったよ」になった現代において、僕らは共有しているようで孤立しているのではないだろうか。
いつからか“フォロワー数”で人の価値が測
られたり、“いいね”をもらうために出掛けたり、充実した生活だと思われたくて投稿を続ける側面があるSNS社会において、僕らはどこへ行ってしまうのだろうか。
ほとんどの人が大衆に向けてプライベートを共有する時代が近づく中で、友人の近況は今以上に把握できるようになるだろう。そして、個人間に訪れる「いつでも連絡できる」が、「じゃあ今じゃなくていいや」へと加速した先に何が待っているのだろう。
共有が引き起こす孤立に僕らは勝てるだろうか。
共有の先にあるのは、団結か孤立か。
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