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命の不思議 #追憶の先に

今日外を歩いていたら、猫に出会った。やせ細り、警戒したその目つきは、野良猫だということを思わせる。

昨日はずっと雨だったから、おひさまに浴びて日光浴でもしているのだろう。背中をまーるく、目をぎゅっとつむる姿が愛くるしい。触りたいけど、ほっといてよとも言われているようで、遠くから見守っていた。

私は、命について考えることがある。例えばこの猫なら、どうしてこの種類の猫で生まれてきたんだろう、猫にとっての幸せってなんだろう、とか。

自分はなぜこの家族のもとで生まれたんだろう、この人はこの病気でどうして死ななきゃいけないんだろう、人は死んだらどうなるんだろう。

何かのドキュメンタリーを見たり聞いたりすると、いつも頭に「命は不思議だな」と思う。動物の命も人間の命も、知れば知るほど私には不思議でたまらない。しかも、宇宙の進化の中で紡がれてきたものだから、研究者や有識者や誰かに聞いたって、その不思議が解かれるわけではない。

その命が地球の中で何のために使われるのか、自分の人生はなんのためにあるかということだって、答えなどない。答えを求めている時点で論外なのかもしれない。

人間として、自分の人生として世に稀に誕生してきた以上、命を粗末にせず使い切りたいなと思う。何歳であろうが人生にはいつか終わりがくる。生きた年数はきっとそこまで重要ではない。皆同じ一生。これまで出逢ってきたことや自分の考え、価値観にリスペクトできるかどうか、もちろん他人に対しても同じく言えること。

命を使い切るという言葉を理解するのは容易ではないだろう。何をしたら自分は命を使い切れるのか、考えるほど「自分の人生はなんのためにあるか」という原点に戻る。自分が自分の命を使い切った、といえる瞬間はどんなものだろうか。瞬間的に気持ちが湧き出るのか、それとも長期的に使い切っていると感じるのか。

私が命を使い切るときは、自分の人生が誰にとっても変わることのできない唯一無二の存在であることは、家族や友人や関わってきた全ての人たちのおかげだと、心から感謝できるようになりたい。後継者のために人の心に残る大切なメッセージや知識や知恵を残していくことが、使い切ったと言えるのかな。

言葉にすることはとても難しいけど、命の不思議を考えることはとても有意義な時間だと思う。今日出会ったこの猫にとっても、命を使い切ると感じる瞬間はあるのだろうか。

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