見出し画像


”世間話”になった、ウクライナ情勢


職場で、OBのご高齢の男性スタッフ2人が、ウクライナ情勢について色々話しているのが聞こえてきた。

Aさん
「そもそもアメリカが悪いよ。それに戦争反対と言いながらウクライナに武器渡して、これじゃあプーチンだってやめるわけないよ」

Bさん
「そうは思わないけど。私は最近反戦反戦っていうのが嫌だね。○○新聞見てたら、”デモで連帯を示そう”とか言ってて気持ちわりいな。それより日本は“核シェア”だよ。 今度は中国に台湾がやられるかもしれないし、真剣に考えなきゃ」

日頃お世話になっているお二人。先輩に失礼を承知で・・・
どちらも私には、違和感だらけだった。
やりとりが会話になっていない、とも思った。

Aさんは、学生運動の世代だという。
日頃から、基本全てはアメリカが悪い、国内は与党が悪い、が自論。

Bさんは、若い頃はAさんのような思想だったと聞くが、歳をとるにつれ、(なぜかよくあるパターンで)「左→右」の変遷を経て、今ではいつも、リベラル的なものを“嘲笑“して、溜飲を下げているようだ。

これは、このお二人に特有なことではなく、最近ウクライナを巡っての人々の反応で、似たような違和感を感じることがよくあったから書いてみた。

さて、その違和感の正体とは何なのだろうか。

「思想ありき」で、頭カチコチ?


ひとつは、まず”思想ありき”だからかなと思った。

事実を調べ、考えて、悩んだ後に結論を出すのではなく、その逆。
考えは決まっていて、自分の気持ちがスッキリする情報を選んで、「ほら、やっぱり〇〇は・・・」と言いたいような感じだ。

自戒の念も込めて言うと、人間、自分では自由に考えているようでいて、結構自分の凝り固まった考えにがんじがらめになっている気がする。でも、身体と同じで、考えも柔らかくしておかないと、いつか、ボキっと折れてしまいそうな気がする。

「顔」が見えない


もう一つの違和感。
それは、加害側、被害側に関わらず、関係する人たちの個々の「顔」を見ようという視点がないことだろうか。

「ロシアは」「ウクライナは」「アメリカは」「中国は」・・・すべて、国名が主語になっている。

もちろんこう言わねばならない時はあるが、一括りにするのは乱暴で、こうしたレッテル貼りが憎しみの連鎖に繋がっていく。人は皆違うし、市民と為政者は違う。

国レベルではなく身の回りのことでもそうだ。例えば「メディアは所詮〇〇だから」のように、特定の業界や職種をひとまとめにして批判や嘲笑する人が結構いる。

批判はもちろん自由だけれど、私は、特に知らない人対して、しかもその業界も、その人の葛藤や努力もよく知らない状況で、「あなたの(業界・職種)は〜だ」と、一括りにして断定して批判することは絶対にしない。

やはり、一括りではなく、可能な限り、個々の「顔」を見て、「声」を聞きたい。


難民の「顔」を届け続けるフォトジャーナリスト


「顔」と言えば、noteでいつも、難民の「顔」と「声」を届けてくれる方がいる。

フォトジャーナリストの小野寺翔太朗さん。
ナゴルノ=カラバフ難民の百人インタビューをされている。

この方の記事を読むまで、「四十四日間戦争」という戦争も知らず、ナゴルノ=カラバフ自体、どこかで名前を聞いたことがある程度の存在だった。

その小野寺さんが今回の戦争について書かれた記事が、こちら↓


東京のロシア大使館前でたった5人で抗議活動をするウクライナの人たち。インタビューを仕事にされている小野寺さんでさえ、その重い空気から思わず立ち去りたくなってしまったというのが、とても印象に残った。

小野寺さんの記事は、たくさんの「顔」が出てくる。
私はいつも楽しみにしながらも、彼らの力強い眼差しを前にして、何もできない自分に後ろめたさを感じるのか、たじろいでしまうこともある。しかし、結局彼らの目に吸い込まれるようにして、記事を読み続ける。

記事ではまた、悲劇はウクライナのみならず、ミャンマー、アフガンなど各地にあることを忘れてはいけないとも教えられる。

子どもたちの 落書き”NO WAR”

 

ところで、最後に一枚のイラストをご紹介したい。

子供が壁にスプレーか何かで書かれたストリートアートを見上げている。そこには「NO WAR」の文字。

デザイン  けんいち🎈人民熊猫さん

この絵を描かれたのは、けんいち🎈人民熊猫1号さん。

上海在住のけんいちさん。仕事や、現地の方との家庭生活の中で発見された中国の面白い情報を、キュートなパンダのイラストと共に紹介してくれる。面白さの中に、優しさや鋭い分析も。そして、チベットの巡礼紀など、普通の日本人が行かない場所の紀行文は必読だ。

今回は、ウクライナ侵攻をきっかけに、ご自身がイラストを書かれる原点となった経験を披露されていた。

若い時に、ストリートアートの本場が見たいと、ちょっと怖いNYのブロンクスに行き、現地の少年に少しビビりながら見た壁の落書き。それが、このNO WARだったという。

思ったことを描く。描きたいから描く。それがアート。
世界の街角で子供たちが、戦争嫌なら、ただそう描けばいい。落書きも大きなパワーを持つはず。

このイラスト、いい。絵を見上げる子供の背中から、彼らの表情も想像してしまう。”暗い大人達”の軍事侵攻に、”素朴で明るい子ども達”の抗議は、勝つことができそうな気がしてくる。クレムリンや天安門に落書きはできないけれど・・・


=========
最後までお読みいただき、ありがとうございました
AJ   😊

(注 表紙の写真は、サハリンの北緯50度線付近の山中で見つかった、旧日本軍のものと見られる薬きょう。またいつか、その時のエピソードを書きます。 AJ 撮影。)


この度、生まれて初めてサポートをいただき、記事が読者に届いて支援までいただいたことに心より感謝しています。この喜びを忘れず、いただいたご支援は、少しでもいろいろな所に行き、様々なものを見聞きして、考えるために使わせていただきます。記事が心に届いた際には、よろしくお願いいたします。