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信州に”世界”が押し寄せた時 〜回想 '98 長野冬季五輪〜

五輪は、何かと”ざわつく”


北京五輪が始まっている。
今回は特にかもしれないが、オリンピックは、常にざわつく。

まず、政治が絡んでくる。批判を受けた国も「スポーツを政治化するな」と言う時点でその発言自体も既に政治化されていたりもする。

さらに、同じ国の中で、賛成派、反対派で分断したりする。国威発揚、商業化・・団結、感動という言葉が好きな人、嫌いな人・・・そして両派とも共通して「アスリート・ファースト」を口にしたりもする。

また、「結局、莫大な放映権料を払ったアメリカのTV局ファーストでしょ」という論も必ず出てくるし、賛成派も反対派も「結局メディアがダメなんだよ」と一括りに批判して溜飲を下げたりする人もいる。

どこに意義を見出すか見出さないか、その答えはもちろん人によって違う。そして最後は結局、「やっぱりトップアスリートはすごい。」と理屈抜きに競技を楽しむ人が大多数だったりもするのも現実だ。

私には何が絶対的な真実かよくわからないので、ここではそういう議論は一切せず、1998年の長野冬季五輪の時の思い出だけを書こうと思う。

白馬村観光局のHPより

「信州に五輪がやってくる!」

・・・えっ?なぜ今、長野の五輪?

それは、北京五輪を見ていて、昔、信州で(競技そのものではないが)色々地元の五輪関連の取材をしたことを思い出したからだ。

数えると、もう6回も前の冬季五輪かあ!歳月の速さに改めて驚かされる。

駆け出しの若造の取材者として長野にいた私にとっては初めての巨大イベント。日本の山間部の一地方が五輪をどう迎えたのかを、数年間見つめる中で感じたことはまだ鮮明に覚えている。大所高所からの五輪の話ではなく、世界的イベントを、地元信州の人たちが、どう受け入れたかを。

今後オリンピックというものを考える時に、開催地の人たちにどういうことが起きるのかを知ることは、きっと意味あることだと思う。

静かな山岳県に押し寄せた巨大波

五輪と一言で言っても、冬は夏とは違い小さな山間の地でやることは多いが、東京や北京のような首都や大都市で開く際の地元の人の感じ方と、山に囲まれた信州で開く際の地元の感じ方は、1人あたりの熱量が違う気がした。もちろん、信州の方が熱かったという意味で。

静かで美しい山岳県に、急にとてつもない世界規模の、ギラギラした異質なものが押し寄せた感じと言おうか。

ドドドドーっと、世界中からヒト・モノ・カネが短期間に集まった。(それは、閉会後にサァーッと引いてしまうのを経験することになるのだが・・)

地元の方と話していると、大部分の人には、高揚感のようなものを感じた。大会が近づくにつれて、地元メディアの報道も五輪関連が占める割合が増え続けていったし、どんな業界もなんでも五輪と結びつけて語られていった。

私の住む地区の町会組織でも、

「五輪で世界のお客様を迎えるのだから、道路沿いに花をたくさん植えましょう。そして通りを皆で掃除しましょう」

・・と言って会費を集める動きがあり、普段町会の活動に積極的に加わらない転勤者への批判などもあったり、そういう五輪の捉え方や、町内会総出のやり方に戸惑ったこともあった。

JR東日本のHPより

何と言っても新幹線!

また、現実的なご利益としては、新幹線が東京から開通する、ということが大きかった。

これまで「特急あさま」で三時間あまりかけて東京へ行っていたのが、一時間台で行けるようになるというのだ。これは地元の人には大きかった。

東京五輪で新幹線や首都高速が整備されたように、高度経済成長モデルの五輪の経済効果を期待する人たちは多かったと思う。

古い駅舎じゃ恥ずかしい!?

新幹線が入れるようにするため、長野駅は改築された。

これまでは、長野の象徴、善光寺を模したとも言われ、日本でも数少ない「仏閣型」と呼ばれる、お寺の屋根のような形をした、まさに和風の趣きのある駅舎だったのだが、それを壊されたのだ。その結果建ったのが、あまりに個性のない、のっぺりとした箱のような駅舎。

新駅舎への評判は散々かと思いきや、私の周りの地元の人たちは、そうでもなかったのを覚えている。

「オリンピックで世界の人をお迎えするんだから、あんな古い駅舎じゃ恥ずかしいさ。」

・・という意見が自分の周りにも結構あって、本当にびっくりした。

「いや、むしろ世界の人が喜ぶのは、むしろその逆なんだけど。善光寺の街なんだし」と思ったが、当時は、「オリンピック=世界=国際的、だから近代的なものを作らなきゃ」という意識を持っていた人も多かったのかもしれない。

ちなみに数年前に久しぶりに長野駅に降り立った時、木を生かした素晴らしい和テイストの駅舎になっていて、ホッとした。そうそう、長野はこうでなきゃ。

善光寺  長野市の公式HPより

荘厳な善光寺界隈以外は、静かな田舎町の風情がある長野市内の各地に、次々と、競技会場が作られていった。畑の中にドーンっと巨大な銀色に光る奇抜な建物が鎮座する姿に、アンバランスな感じを受けたのも思い出す。

スピードスケート会場だったエムウェーブ 長野市のHPより

子供たちの心に残したもの

開催地の子供たちにも大きな影響があったようだ。

今は第一線の海外特派員として英語やロシア語などを駆使して活躍しているある女性は、長野五輪の時は地元の小学生だった。

一つの学校が一つの国を応援するという「一校一国運動」の授業で、応援する国の選手と交流した経験が忘れられず、英語の勉強が楽しくなり、今の仕事を目指すきっかけになったと教えてくれた。

自分の故郷が、どこか世界と繋がっているという感覚を持った子供は少なくなかったかもしれない。

賛成派も反対派も、ざわつく

もちろん、五輪の負の面も炙り出された。

招致活動をめぐる汚職疑惑、結局西武のリゾートを新幹線が繋いだだけではないかという批判、地滑り危険性を無視して会場整備をしたとする訴訟、財政面での危惧、自然破壊、そもそも五輪なんていらない、会場がある長野県北部と東部以外には何の恩恵もないとの批判など、枚挙にいとまがない。

五輪賛成派も反対派も、”アドレナリンが大量に出ていた数年”という感じを、私は受けていた。

そして、大会が近づくにつれ、五輪推進の空気感が強まってくるのであった。

今日はここまで。

それにしても、オリンピックというこの巨大な怪物は一体何なのだろう。

それを考える時、この長野の昔話も、何かの参考になることを祈りながら。

また、回想の続きに、お付き合いいただければ嬉しいです。


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最後までお読みいただき、ありがとうございました。

AJ 😄






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