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さようなら、2022! 来年の投稿は・・・

いよいよ、今年が終わる。

いつも思うが、年が変わるからと言って、何か問題がリセットされたり、帳消しになってしまうわけじゃない。なにより今年始まった戦争も終わってない。いつものように日々の積み重ねが続いている。

noteの皆さんには大変お世話になった。毎日共感したり、知識を得たり、この空間で楽しませてもらっている。

自分の投稿は、昨年の開始当初は、英語、中国語を、取材エピソードをからめながら読み解いていこうと、そしてそこに好きな写真も載せて・・などと思っていたが、いつの間にかどんどんテーマが広がり、統一感がなくなってしまった。

でも、これが素の自分。常にやりたいことや知りたいことだらけ。どんなテーマでも好奇心が湧いたものについて書いていく、という統一感はあるかもしれない。年が変わっても、こんな感じで日常を積み重ねていこうかなと思う。

ちなみに私は、どんなテーマでも、「・・とは・・だ」と自信を持って断定できることはないし、自分の考えを人に啓蒙したり、人の考えを正そうなんていう境地には到底たどりついていない。むしろ、たどりつくわけもないし、べきでもないと思う。学べば学ぶほど、自分が知らない、できないことだらけであること、一括りにして言えないこと、に気が付く。

そういえば、「無知の知」という言葉。

ネットで検索すると「無知の知 マウント」など、想像もしない予測変換が出てきて驚いたことがある。そういう発想があるんや!と。「この言葉の本当の意味は違う」という説も多く、ひょっとして、この言葉を好まない人も少なくないのか、と思い、衝撃的だった。

まず、歴史的にソクラテスがどう言った、どうだったということは全くわからないけれど、私は、単純に「自分が知らないということを自覚する」という意味であれば、この言葉が大好きだ。そして、やたらこういう姿勢を感覚的に嫌う風潮が社会にあるとすれば、そこには不安さえ感じる。物事を断定して、それで人を正そうとする人が増えているような気がする今、何か不安なのだ。

今こそ、単純に、「自分が知らないこと、できないことがこんなにある。知っている人、できる人の話を聞いてみよう」という好奇心こそが大切だと思う。自分に不安がある時こそ、縮まって、自己肯定や他者を否定する理由を探して安心を得ようとするのではなく、単純に「知らない、知りたい」という発想からスタートすることに、時代の閉塞感突破の糸口があるような気がする。

というわけで、新年も、今の延長で、皆さんから色々教わり、こちらも少しでも発信できればと思います。これからもおつきあいのほど、よろしくお願いします。

短いコメントでも、引き続きいただければ、めちゃくちゃ嬉しいです!

2022年 大晦日

都心から見た、日の入り直後の富士山


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