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生死を見つめた小学生の結論

自分のことすら俯瞰で考える自分の悪い癖だ。医療ドラマの入院している子供のセリフや挙動に親は涙していた。自分は泣くより先にこう思った。
「この子はこの人生でよかったのかな。」と。

愛する人が自分のことを誰だか知らないけどいい人と認識されること。記憶喪失やアルツハイマーのドラマにつきものだ。自分はホロホロと泣いた。
「記憶のない人生、忘れられた人生、この人たちはこれでよかったのかな。」と。

現代では治療法のない病気で苦しみ悶えながら死んでいく事を想像した。ある有名な漫画では未来に治療法が確立されるのを願い、患者を冷凍保存していた。きっとその時代で生かされ続けていたら自分は耐えられず、か細い声で言うのだろう。
「一思いに…。」と。

「まさか、あの人が!」
誰もが見て才能あふれる方が自ら命を断ち、亡くなった。私が測れるようなことではない。でも、それは彼にとってはやり切った人生だったのかも知れない。本当のことがわかるのは本人や身近な人だ。人は思ってるほど見てないなんて言うが、見てる。だから彼への遺憾のコメントや落ち込みが多いのだろう。自分もその1人だ。
それでも自分は思う。
「彼は人生を全うできたのだろうか。」と。

この感情や自分の考えをどう表すのか、そして、どうして死についての話題を皆しないのか。冒頭で小学生だった私は歳を重ねても、結婚出産を経てもわからずにいた。

一般的に考えたらそんな小学生いるわけないと思うだろう。でもその一部だった人間は思う。

自分はこう死にたい!全うしたい!を口にできないから苦しいのではないか、と。
それが自死や鬱につながるのではないかと。
祖母の事故死を経験してからは一層その気持ちは増すばかりだ。

特に新型コロナウイルスが蔓延してから、みな死の恐怖を突きつけられ、こう思った方が多いのではないだろうか。
「こんなことで死にたくない!」と。

この感情は普段我慢してきた、抑圧されたことが反動で怒りに変わっている。そして、その人たちは考えているはずだ。コロナウイルスで死にたくないのだと。

その人に私は聞きたい。
ならば、どうやって死にたいのか。

大抵、人は生きてるうちに何かの疾患や怪我はするだろう。その恐怖が降って湧いてから考えるのではなく、思い立ったら示しておかなければ遅い。不測の事態は予想が立たないから用意が必要なのだ。

今、日本では安楽死、尊厳死についてはそれほど議論が進んでいない国である。
しかし、患者、家族にとって良いライフスタイル計画のようなものを組んだり、治療や意思表示がしやすいように変わってきていた。
アドバンスケアプランニング(ACP)と言う考え方らしい。詳細は厚生労働省のHPに定義が記載されており人生会議と銘打っている。団体や各病院によるシートが印刷できるようになっている。

ドナーカードでは足りず、尊厳死というほどの熱い思いはない。遺書やエンディングノートでは重たすぎる。
ずっとこの示し方を探していた。しっくりくる表現方法だった。

まだ新型コロナウイルスに関して有効な手立てやワクチンは確立されていない。人はいつか死ぬ生き物だが、コロナウイルスによる死と言う悲しい選択肢が増えたのだ。抗う力ができるまでどう生きるのか、その選択肢以外で亡くなることがあったら…。考えておくのが自分のため、関わった誰かの未来を奪わない手立てになる。

自分自身にあった意思表示方法があると思う。ライトな感じでもいい。伝えられない状況になる前に、信頼できる人に伝えておくのもひとつだろう。祖母の命が尽きるまで、病院のベッドで横たわる姿を眺めることしかできなかった私からもお願いだ。本人が一番苦しいだろう。でも、家族側、遺族側もそれなりの苦痛がともなうものなのだ。

ACPを示しておくことで、家族や医療従事者に良心の呵責や負担を感じさせる事、そして、患者の死を利用した事件や事故が減るきっかけになりそうだと感じる。
この記事を書きながら私自身も並行してACPの用紙の記入の準備を始めた。

死を見つめた小学生の結論は未知の病の蔓延まで気付くことはなかった。そしてこの結論はいずれ変わることがあるだろう。
なぜなら、私の人生はまだ続く予定で、生きれば生きるほど情勢は刻々と変わっていくからだ。

恐怖に怯えるばかりではなく、自分の要を守るためにできることの手駒の一つとして、ACPの考え方が広まれば良いと昨今のニュースから感じた次第だ。






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