人間の人間による人間のための戦争(世界の中心で愛を叫んだけもの/ハーラン・エリスン)

人間の独創性を刺激し、その能力に挑む戦争がなくて、どうして人間はその究極の進歩への道に立ちもどれよう?

――『眠れ、安らかに』p92-p93より

「トランプ大統領が、イラン司令官を空爆により殺害」


三が日、そんなニュースが日本(を含め、世界各国)に知らされた。それからしばらく、ツイッターでは、こんなハッシュタグがトレンド入りしていた。


#第三次世界大戦


荒唐無稽だったはずのことばが、そのニュースによって、突然現実味を帯びた。そのハッシュタグで、色んなツイートをサーチしてみると、平和を訴える人、茶化す人、どうでもいい人……。悲喜こもごも、といった感じだった。「喜」なんてことばは、本当は、戦争の名の元に、あってはいけないのに。(ちなみに僕は、以上のどれにも該当しなかった。関心が無いわけじゃなく、何をツイートしたらいいのか、した方がいいのか、わからなかったから。)


ところで、それとは関係なく、僕は正月休みに、ハーラン・エリスンの『世界の中心で愛を叫んだけもの』を読み始めた。


SFらしいよくわからない用語をよくわからないまま読み進めていても、僕の頭の中には、「第三次世界大戦」の文字が常にあった。作中では、第四次世界大戦、第五次世界大戦、第六次世界大戦……と、空想上でしかありえないことばが並んでいた。……ううん、「ありえない」じゃなく、「ありえなかった」か。実際に、そういうことが起ころうとしているんだから。


現実では、第三次も起きていないのに、第四次まで起こってしまったら、人間はもういなくなってるんじゃないだろうか。でも、そういう話じゃ、ないみたいだ。なぜなら、作中に登場する人達は、人間の人間による人間のための戦争をしているから。だから、その戦争によって、人間そのものがいなくなることなんて、考えていないんだ。僕はそれを、恐ろしく思った。


戦争は、「善 VS 悪」でも、「悪 VS 悪」でもない。常に、「善 VS 善」なんだ。ゆえに、戦争は無くならない。どちらの善が正しいのかが、決着がつくまで。

きみの不幸は、ほんとうの人間であることだ。この世界は闘争者のために作られている。きみは闘争のしかたを学ばずじまいだった。

――『世界の中心で愛を叫んだけもの』p39より

戦争に賛成する人達も、反対する人達も、本当は、同じ気持ちなのかもしれない。世界が、平和でありますように。そのためには、人を殺しても仕方がない。/仕方がない、はずがない。その思想の違いがあるから、戦争は起こるのかもしれない。


全ては、人類のために。
全ては、平和のために。


愛を叫んだけものは、きっとまだ、世界の中心にいる。

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世界の中心で愛を叫んだけもの/ハーラン・エリスン(文庫版:1979年)

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