見出し画像

ぎゅっとなる記憶をわざと呼び戻す


幸せでいいことが続くと、たまに切ない記憶や、たまらなかった過去の出来事を蘇らせて、感情を乱したくなる時がある。
今の暮らしに飽きているのではなく、ただそういう気持ちに中毒性があるだけ。

戻りたいとか、また会いたいとか、あの頃の方が良かったとか、そういう気持ちは一切なくて、ただ思い出したくなるだけだけど、こういう自分は結構厄介で面倒だ。



作品を作ったり、文章を書いたりする人は、ある程度、感情のプラスとマイナスのパワーをうまく使って創作をしていると聞いたことがある。わたしは別に何者でもないけれど、わかる気がする。
感情を自分で大きく上下に振って、(どちらかというと下に)、そこからじゃないと湧き出ないものとかがある。


自分にも、そういう “きっかけ” になる物事と、それによって “呼び起こされる日々” のどちらもがあるから、厄介なのだ。

でも、この29年生きてきた中で、そういう記憶を持てている人生で良かった。
思い出す苦しさや切なさがないのって、なんだか寂しいから。




思い出すきっかけは、圧倒的に映画が多いように思う。

きっかけとなる映画は、その頃観ていたものに加えて、感情が重なったり、主人公との関係が似ているもので、
「劇場」と「明け方の若者たち」の2つが圧倒的。辛い気持ちになりたい時、逆に辛い気持ちから立ち直りたい時、もう何十回と観た。

 

「劇場」は当時の彼に対する感情や、関係性に酷似していて、見ると嗚咽するほど泣いてしまう。「明け方の若者たち」はその当時好きでいてくれて、頼ってしまって支えてくれて、裏切ってしまった男の子との思い出や関係性にそっくりなのが辛い。辛くて、それを思い出したくて、何度も観てしまうのだ。



わたしのアラーム音は、「明け方の若者たち」を観てからいまだにずっと、キリンジのエイリアンズだし、「劇場」の沙紀ちゃんの眉を下げた悲しい笑い方が、今でもその頃の自分に重なる。

心がぎゅっとなるから思い出したくないのに、忘れたくなさすぎて、苦しくなりたくて、やっぱり繰り返し記憶を呼び戻してしまう。
切なさを呼び起こすには十分すぎるほど、記憶がすぐに取り出せる。






彼といる時の機嫌を伺う自分が嫌いだったなとか、それでも得られる幸せには変えられなかっただとか、わたしが彼を笑わせたいと自分のプラス部分をまっすぐ彼に費やしていたなぁとか、上手くいかない結婚の話も二人の関係も、全部なんとかなるって信じてた。


それに反して、好きでいてくれた男の子には傲慢で、でも本当は絶対に離れてほしくないほど大切だったなとか、あの頃彼がいなかったらどうやって息してたんだろうとか。
まっすぐ向けられる好きに答えられなくてセックスしながらお互い泣いてたこととか、何となく終わりを感じながら来年の約束をしちゃってたなとか、その時は目の前のきみも大切だって思ってた。それに嘘はなかったから。



その彼と会わなくなってから上映が始まった「明け方の若者たち」を観て、あの頃の自分たちにそっくりすぎて衝撃を受けて、つい連絡をしてしまったほどだった。
「この映画見たら思い出してしまった....
観た??」と聞いたら、「観てない、たぶん観ることないと思う」と返ってきて、その後にあらすじと予告を見たのか、「連絡してきた理由がわかった笑」と言われて、それきり。



どちらの映画を見ても、思い出すそれぞの記憶と人がいて、湧き出す感情から繋がるものは、その時々で違う。すごく文章を書きたくなってすぐにnoteを開くこともあれば、ただただ落ち込んで夜散歩に出たり、逆に今の彼に会いたくなることだってある。



わたしの中ではやっぱり、自分の中の感情を動かすという作業は大事で、そのためにわざと記憶を呼び戻してしまう。


呼び戻すだけの出来事があるのは幸せだし、その記憶の中の人たちが、自分と同じようにわたしをこうやって思い出すことがあればいいのに、とちょっとだけ思う。





わたしはやっぱり、プラスだけの要素では生きていけないみたいだから、すでに蓄えた切なさとか辛さを携えながら、のんびりした幸せの中を歩いていきたい。




この記事が参加している募集

映画感想文

沼落ちnote

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?