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体と時間は誰のものか

この週末、仲の良い友人たちとひさしぶりに飲む機会がありました。

今年30歳の私たちが集まれば、男女の差はなく気づけば結婚の話になります。

私はいまの人生で結婚するかどうかを決めていないし、自分の体を女性として使っていきたいのかもわからない。

でも、目の前の彼らは結婚はいつかするものだと思っていて、いまの恋人といつ結婚するのかを話している。

そんな彼らのことが純朴な存在に見えて、私は蚊帳の外から話を見守っているような感覚になりました。

結婚をする意味とは

前置きをしますが、良し悪しの話はここではしません。

ただ純粋に彼らの言葉を借りれば、結婚とは子孫を残していく手段で、だからいまこんなふうに人類がいるのだという話でした。

この言葉は、私のなかでは「自分たちも子孫を残す歯車になっていくべき」だと置き換えられて、少し違和感を感じたのでした。

私の体の使い方

私は現段階で、私の体をいわゆる女性らしく使っていきたいのかがわかりません。

恋愛関係で女性として扱われたいのかとか、妊娠をして出産を経験してみたいのかとか、そのあたりに確信が持てません。生物としては完全に女性だと思うのだけど、どう扱いたいのかがわからないのです。

将来家族は形成したいし、私にとって家族という存在は大きいです。

でも、家族を自らが結婚をして作りたいのか、はたまた出産をしたいのか、まだ答えを持っていません。

体と時間に対する圧

最近、強く思うことがあります。

それは、私の体は私のものであり、私の時間も私のものであるということです。

例えば日々のファッションは、誰に評価されるためではなくて自分のために楽しんでいい。日本では痩せているほうが良しとされますが、そもそもどんな体型でいたいかだって自分で選んでいいはずです。

そこから派生して、自分の体をどう使いたいかだって、自分で選んで良いはず。そして私は、自分の体を女性らしく使いたいのか、それともあえてそうは使わないのかということにまだ答えが持てずにいます。

時間についても考えてみます。

同級生が言っていた、「結婚して子孫を残してきた誰かがいたから、いまの人類の存在がある」という話。

その言葉を聞いて、「私たちもその歯車になっていく必要がある」という圧力がこの世界にはあると捉えた私。

生物的に女性である私が妊娠して出産をすることは、言い換えれば未来の人類に時間を捧げることかもしれない。

そう考えると、結婚や出産の圧力は時間を誰かに使う圧力のようにも感じます。

体と時間は誰のものか

いまの私は、体も時間も私のものだから、使い方は私が決めたいと思っています。

そしてそう思う方は、実は本当はたくさんいるのではと思っています。

でもこの世の中では、結婚こそが幸せの形とされる空気がある。結婚をしたら妻が妊娠して、自分たちと血の繋がった子どもを持つことが当たり前とされる。

圧力があるから、体と時間を自分のために使いたいと言い出せないのではないか。そんなふうに思います。

念のために書いておきますが、結婚や妊娠を自らの意思でされたい方を否定したいのではありません。ただ、圧力で人生を左右される方が、なるべく少なくあってほしいと思うだけです。

この価値観を誰に押し付けるつもりもありません。だけど私は、私のために自分を使いたいと思っています。


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