記事一覧
キラキラネームに関する私見
キラキラネームが問題視されはじめてしばらくの年月が経っている。
ネットニュースなどや意見論者たちの主張をたびたび目にし、その度に自分なりにも考えてみた。
このような問題に対して、真なる良し悪しというものはもちろん存在しないのだが、現代社会の通念たる道徳的な基準というものは形成しうるものだ。
そのような中で、私もこのテーマに今現在の理解と私見をまとめてみようかと思う。
強く断っておくが、あく
すぐには質問に答えない
私が会話において(特に指導において)最も大事にしていることの1つに、『すぐに質問に答えない』というのがある。
これはただ、解答を渋って焦らしている、というものではない。
人が誰かに質問するとき、その質問の言葉は、“極めて単純化された疑問の要旨”に過ぎないという風にわたしは思う。
しかしながら、疑問の要旨とは言いつつも、疑問の持つ本来の意味や意図はその要旨だけでは到底押しはかることができない。
How to の限界
昨今、YouTubeでもWeb記事でも実用書でも、あらゆるところにHow toが溢れている。
しかし、How to でできることは良くも悪くも知ることのみ。
それが実践できるかは別のお話。
わたしは受験指導をすることが多いのだが、受験に関するHow to ほど溢れていて、実践が難しいものはない。
論理がそれっぽいがあまりできてしまいそうになるが、中学生や高校生の誰もがそれを実践できるなら塾
検索で本を選ぶことの方が多くなってきた話
これは極めて個人的な話であることをはじめに断っておきたい。
わたしが読書に目覚め、かれこれ6年が経った。
嘘か真かはわからないが、『日本の大学生は4年間で100冊も本を読まないがアメリカの大学生は400冊もの本を読む』というのをどこかで聞きつけたわたしは、後者の生き方に憧れを持ち、がむしゃらに読書習慣を築いてきた。
読書をはじめた頃を回想すると、とにかくどんな本を読むべきかに苦慮していたよう
素人(門外漢)意見のすばらしい意義と注慮すべきマナー
たとえば、医療に関して何かしら語ろうとするとき、医学を修めていないない素人がどんなに一生懸命調べても、医学を修めた権威よりもその精度は落ちるだろうし、発信の信憑性も低いと感じる。
素人が論理の穴を突かれ糾弾され続けると、たちまち消沈して声を上げるのをやめるか、そのまま声を上げ続け周囲から腫れ物のように扱われるかのような路を辿るだろう。
素人のくせに適当なことを言うな。素人のくせに偉そうに言うな
『自分の頭で考える』の違和感
以前にも増して、『自分の頭で考える』ということの大事さが強調されている。
答えのある問いを丸暗記するのではなく、答えのない問いに対して立ち向かうことが大事だと説いている。
『自分の頭で考える』は確かに大事なのだが、これを真っ先に唱えることについて私は違和感を抱いている。
【『自分の頭で考える』は最終手段であり、基本的には先人の劣化でしかない。】
これが私の考えだ。
要するに、
先人が一度
因果学習は過保護によって妨げられる
過保護は学習を阻害すると言っても異論はないと思う。
過保護という言葉はよくないと我々の多くは認知している(はずだ)。
過保護の最大悪は学習の阻害にあると思う。
・走り回って転ぶと、膝を擦りむいて血が出て痛い。
・友達と喧嘩すると、心が痛んで悲しい。
・熱いものに触ると、火傷する。
・良いことをすると、感謝される(こともある)。
・練習すると、以前より物事がうまくできるようになる。
・うさぎの
単調さについての考察
最近は、単調さは果たして良いことなのか悪いことなのかを考えることが多い。
もちろん一概には言えないのだが、単調さは負の方向に作用することが多いように思う。
単調さとは同じことを何度もするということであり、それは回数を重ねたり時間を経るごとに偏りを生む。
つまり単調さを許容するということは偏りの存在と肥大化を許容するのと同義であると考えられる。
なので単調さが良いか悪いかは、偏りが存在してい
コンテンツの消費と持続性
奥深いコンテンツほど、噛んでも噛んでも味がする。
他の人には味が感じられなくても、自分がまだまだ味わえると感じられるならいくらでも楽しめる。
10代の頃に夢中になった音楽を、40代50代でも楽しめるのは幸せなこと。
流行は食い潰される。じっくり消費していくことで、時の熟成も合間っていい味を出しそうなコンテンツはたくさんあるが、ひとたび流行の土俵に乗ってしまうと、我先にとハイエナたちに骨の髄まで食
人間、大体、意識朦朧
近頃、人の意識はいつまで経ってもはっきりしないなということを考えている。
自分の少年時代のかの日常を振り返ってみても、随分と意識がはっきりしていなかったものだとしみじみ思う。
意識がはっきりしていないというのはどういうことかというと、それは人間的であるというより動物的であるということだ。
つまり、理性がはっきりせず反射反射で生きているような、ある信号に対して必ず決まった信号で応えるといったよ
考えるだけではなく、考えて書き記すところまでが思考
一流と三流の違いという違和感
一流と三流の違いというフォーマットがあるが、よもや擦られすぎて違和感を感じる。
人間は共通点を探すのが異様に好きだし、共通点らしきものから安易な結論付けをするのも好きだ。
もちろん中にはなるほど頷けるものもあるが、真に相当な説得力を得るには、儒学者たちのような、時代を越えて読み継がれ支持されるくらいの時間の成果に耐えうるものでなければならない。
巷で聞く、誰が言い出したんだかわからないような
責任の取らせ方
①地位の降格・抹消
②金銭的負担
③批判の的化
④説明責任
⑤謝罪
⑥接触・接触禁止
⑦謹慎・拘束
(⑧身体の一部・命)
思いつく限りこんな感じ。
他にもあるかも。
『常識を疑う』とはどういうことか
常識を疑うとは、日常に当たり前に存在しているものや提示されたものに対して、「なぜ?」「どうして?」と疑いを持ち、その解を思索や探索により解き明かす、螺旋状の思考的営みである。
つまり、一度のなぜでその深淵、いわゆる納得感に到達することはなく、出た問いに対して、納得するまで「なぜ?」「どうして?」をぶつけてみるのだ。
はじめは手直なものでいい。「空」でも「いじめっ子」でも「チョコレート」でもなん