些末な議論
振り返ってみれば些末であったという議論は多い。
例えば、紙媒体対電子媒体の議論は些末な議論にすぎないと私は思う。
両者の違いを比べてあーだこーだ言うのは比較的誰にでもできる容易な作業である。
常用者にとっては、その些末さでさえ塵積であろうからこだわる必然性も理解できる。
しかし、そこまで常用しない場合に至っては、浮き彫りになる両者の違いなど些末なものにすぎないのではないか。
要は、読書が目的であれば、多少の脳への印象は異なるかもしれないが、どちらにせよ読めば内容はさらえ、目的は果たせる。
勉強でも、使い勝手に差はあれど、どちらもテキストや問題集を読んで問題を解くことはできる。
それはちょうどスタートからゴールまでの道筋が複数あるようなもので、何往復もするのなら最短で苦のないルートを選びたくなるのは当然だが、1回きりならどの道を選んでもゴールに着くという目的は達成できる。
一回きりでもその一回をなるべく良いものにしたいという気持ちはよくわかるし、できるならそうすべきではある。
しかし、議論に終始し選択を吟味しすぎるあまり、最良の選択ができるまで肝心な第一歩を踏み留まるというのは愚行の極みである。
もちろん7よりも10を目指したいのはわかるのだが、10が見つかるまで0でいるくらいならさっさと7をやったほうが良い。
1と2は大差ないが、0と1は全く価値が違うのだ。
だから難しい10をしようとした結果できず0になるくらいなら、簡単な7をした方が良いのだ。
朝は頭がスッキリするから朝に勉強するのが良いという通説があり、それはその通りだと思うが、夜の方が活発で朝にめっぽう弱いなら、朝のメリットを捨ててでも、できる可能性が高い夜にやった方がいいに決まっている。
朝が弱い人が朝に頭がスッキリしていることはないし、そもそも早起きできる確率がものすごく低く、計画自体が頓挫して0になるリスクの方が高い。
bestができるならもちろん良いが、0を生むくらいなら7でも1でも十分なのだ。
つまり、物事の違いというものは、0と1と比べれば至極些末なものにすぎない。
まずは何でもいいからやってみる。
そしてそれが習慣になったら、はじめてその些末な議論を展開する権利が得られるのである。
それこそが研鑽改良であるのだ。