検索で本を選ぶことの方が多くなってきた話

これは極めて個人的な話であることをはじめに断っておきたい。

わたしが読書に目覚め、かれこれ6年が経った。

嘘か真かはわからないが、『日本の大学生は4年間で100冊も本を読まないがアメリカの大学生は400冊もの本を読む』というのをどこかで聞きつけたわたしは、後者の生き方に憧れを持ち、がむしゃらに読書習慣を築いてきた。

読書をはじめた頃を回想すると、とにかくどんな本を読むべきかに苦慮していたように思う。

読みたい本が明確に見つかるときもあれば、そうでないときもあった。

価値のある本を見出せたときもあれば、駄本にあたることもあった。

何の本を読めばいいかわからないときは、本屋を隅々まで闊歩して、ビビッとくるものを読めばいいのだという結論に至った今からしてみても、当初はそれでいいものかと思っていたような気がする。

読書はじめたては、とにかく本屋によく行っていた。

2週間に1度は本屋に足を運んでいた。

本屋と本屋を梯子し、本と自分と感性が溶け合う瞬間をひたすら待っていた。

そういった選び方が多かった。

読書のはじめたての頃は、新書が良いだろう。

わたしは新書を大喜利本と揶揄することもあるが、中にはちゃんとしたのもあり、比較的ページ数が少なく(200ページくらい)、内容も比較的簡単なので読みやすい(今でもたまに読みたくなる)。

最近(?)出てきた、「ちくまプリマー文庫」や「小学館Youth Books」は比較的質が高く、内容もしっかりしていておもしろい。

ただ、最近はめっきり本屋に行くことも少なくなった。

一か月に一度くらいだろうか。

最近はもっぱらAmazonで本を買うことが多い。

なぜ、こういう買い方ができるかというと、ほしい本がもうすでに決まっているからだ。

これはもう至ってシンプルな話で、何かを調べているうちに、知りたいことがどんどん湧き出てきて、それを知ることができる本はないかを検索して、ヒットした本の中で比較的信頼できそうな本を選んで注文するという形をとっているからだ。

例えば、記憶力について知りたいと思ったら、「記憶力 本」と検索してその中から良さそうな本を選ぶというやり方だ。

読書はじめたての頃は、こういった明確にこれが知りたいという欲求がないことの方が多かったので、テーマ探し的なことも合わせて本屋に通っていたのだが、今はもっぱらテーマには不足していない。

おまけに読書の体力もついた。

以前は400ページの本なんて読めたものではなかったが、今では400ページくらいが標準と化してきた。

ともあれということだが、わたしは依然として読書をまわりにすすめるということはしない。

読みたきゃどうぞ。読みたくなきゃどうぞという態度だ。

文字が読める喜びはひとしおだが、読めなくても動画コンテンツを見れば十分楽しめる。

やりたくない人に啓発するほどの元気と優しさはわたしにはない。

勉強する意味ってありますか?と聞かれれば、人によるとしか言えないし、勉強は役に立ちますかと言われても人によるとしか言えない。

人によるというのは、ある程度自分の意思で、勉強を役立てるルート取りをするか、役立てないルート取りをするか選べるよという話で、どちらをとっても生きてはいける。

動物的な享楽を追求する人生に憧れるか、人間的な文明発展の追求に憧れるかは人それぞれ、という意味で人によると答える。

どちらのスタンスを取ってもいいし、どちらのスタンスの人も存在し、その平衡状態がゆるやかに遷移していくことが大事なのだ。

そういった平衡状態のせめぎ合いは、人工的であるよりも、先人の背中を見てどちらがより憧れるかという直感で決めるのが良いとわたしはなんとなく思っている。

だから、あまり人におすすめはしない。

好きにしてくれという話だ。

いくぶん脱線したが、人生は残り短い。

他者に磨耗されないうちに、もう少し利己的な人生を甘受したい。