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人間、大体、意識朦朧

近頃、人の意識はいつまで経ってもはっきりしないなということを考えている。

自分の少年時代のかの日常を振り返ってみても、随分と意識がはっきりしていなかったものだとしみじみ思う。

意識がはっきりしていないというのはどういうことかというと、それは人間的であるというより動物的であるということだ。

つまり、理性がはっきりせず反射反射で生きているような、ある信号に対して必ず決まった信号で応えるといったような、極めて予測可能でシンプルな様相だということ。

人間の意識がはっきりするというのは、この生物の呪いとも言うべき反射を理性をもって抑制あるいは理性をもって許容するということであり、理性をもって狩猟採集時代の遺産たる反射を、現在の価値基準をもって熟考吟味しようという営みなのだ。

そう考えると、ほとんどの人間は理性の片鱗たるものは見せるのだけれども、子供も大人も意識がはっきりしていないものの多さに気づく(かく言う私も、まだ意識がはっきりしていないという自覚ができる)。

さて、ここで一度考えた方が良いのが、果たして意識というのものははっきりした方がいいのか、はっきりしない方がいいのかという問題である。

耳の聞こえ的にはなんとなく前者の方が良さそうに聞こえるのだが、必ずしもそんなことはない。

私の考えでは、やはりどちらでもいいというところに落ち着くのだが、意識のはっきりしている人たちが意識のはっきりしていない人たちを支配するという構造にはなると思う。

しかし、意識がはっきりしていない人の大半は、その支配構造にも気づけないはずであるから、それはその人たちにとっては存在しないものとして近似できる。

ゆえに、いわば人類の親として人生を楽しむのか、子供として人生を楽しむのか、その好みの問題なのではないかと私は思う。

では、人間の意識をよりはっきりさせるにはどうしたらよいか。

答えはわからないが、仮説はある。

それは、大量の情報・知識を摂取し、既存の考えと対立させ、思考の淘汰を繰り返すという、代謝的な取捨選択を繰り返していくことにあると思う。

その結果として、自分の生き方や考えに対して、なんでもかんでも言語化できるようになること、その生き方や考え方に到達するまでの屍についても説明することができる、そして自分の中にある動物的なものを完全に否定するのではなく、うまく折り合いをつけながら生きられる。

この精度が高い人ほど意識がはっきりしていると言えよう。

サッカーやバスケットボールを体験したこともないのに、野球ばかりに熱中する人を、意識がはっきりしている人だとは私は思わない。

サッカーやバスケットボールを経験した上で野球に熱中するというのを選ぶのなら、それはある程度意識がはっきりしてきたと言える(さらには野球をやりながら定期的に他のスポーツに挑戦し、他のスポーツの方が良いなと思ったらすぐに乗り換える。こういうことを繰り返すとさらに意識ははっきりしてくる)。

どっちが良い悪いではない。
ただ、意識がはっきりしていない状態は生まれながらに備わっているものであり、そこから意識をはっきりさせるのは後天的な営みであるということは言えよう。

その生まれながらのピュアさを尖らせたゆえの成功者はたくさんいる。
自己研鑽を積み上げたゆえの成功者もたくさんいるだろう。

どちらが良い悪いではない。
これは構造的な話であり、つまりは好みの話なのだ。