一流と三流の違いという違和感
一流と三流の違いというフォーマットがあるが、よもや擦られすぎて違和感を感じる。
人間は共通点を探すのが異様に好きだし、共通点らしきものから安易な結論付けをするのも好きだ。
もちろん中にはなるほど頷けるものもあるが、真に相当な説得力を得るには、儒学者たちのような、時代を越えて読み継がれ支持されるくらいの時間の成果に耐えうるものでなければならない。
巷で聞く、誰が言い出したんだかわからないような、自称一流と三流の違いは、ただのマウントトークに過ぎないものも混じっているように思う。
たとえば、最近耳にした、『三流はシャワー、二流はお風呂、一流はサウナ』みたいなものは、ただのマウントトークというか、ポジショントークのようにしか思えない。
よくわからないサウナ好きが、自分たちのしてることカッコええやろ〜という具合に、類似物を引き合いに出して、やたらめったらマウンティングしているようにしか聞こえない。
確かにサウナにはサウナの良さはあるのだが、そこに一流とか三流とかいう幻想的上下階層を作るのは安易であるとしか言えない。
おそらくこのようなものは、とりあえず『三流はシャワー、二流はお風呂、一流はサウナ』と仮定してみて、実際どうかな〜くらいのノリで作ったのだと思うが、ただの仮定も伝聞が繰り返されれば、あたかも時代の真理であるかのような響きを持ってしまう。
そして、それが単なるマウンティング行為の賜物であるとさえ気づかずに一流と三流の違いを引き合いに出して、一流だと思い込んでいる行為に傾倒することが、果たして本当に一流なのだろうかと私は思う。
この幻想的上下階層の構築はその時代に生きる人間の一様化を促進し、単一規格化しようという試みに思えることさえある。
では、人類みなサウナに入ることが正解なのか。
そんなことはない。ただの選択肢の一つにすぎない。
一流と三流の違いを振りかざし、マウンティングトークをすること、そして一流と思い込んでいる行為をする人を増殖させることに何の目的があるにだろうか。
おそらく、そういうマウンティングをせずにはいられない人はたとえば、全人類がサウナをするようになったら、『三流は風呂、二流はサウナ、一流は岩盤浴』とかまた新しいものを探し出して、どうにか再びマウントを取ろうとするのだろう。
特に、30〜50代の人たちは、自分たちの行動を正当化したくてしたくてたまらないように思える。
自分の行動が正しいと思うならば、勝手に一人で自分の行動を貫けばいいのだと思うのだが、10代や20代を餌にして、自分が如何に正しいか、自分のような人間になれと叱咤激励することで、不安な自分の行動を正当化せずにはいられないのだ。
そうやって正当化されたものが、果たして本当に良質なものなのかは甚だ疑問である。
正しい正しくないというものは、主観的なものであるし、言語によって極端な一様化をすべきものではないと思う。
また、言語による正しさよりもその人の生き方や姿勢によって説得される一流にわたしは惚れたい。
一流と三流の違いという安易な言葉で説得するのではなく、姿勢で示して欲しい。
そしてそこに必要なのは、結論付けや慢心などではなく、常に改良しようという貪欲さは、もっと良いものがあるという追求心だ。
アップデートの回数や、捨ててきたものの質が、現在の質の強力な説得力になる。
本当の一流は一流と三流の違いを語らない。
語ったとして、あくまで自説であるということ、信憑性は甚だ皆無であるという前置きをおける謙虚さを持って論じるのである。