因果学習は過保護によって妨げられる

過保護は学習を阻害すると言っても異論はないと思う。

過保護という言葉はよくないと我々の多くは認知している(はずだ)。

過保護の最大悪は学習の阻害にあると思う。

・走り回って転ぶと、膝を擦りむいて血が出て痛い。
・友達と喧嘩すると、心が痛んで悲しい。
・熱いものに触ると、火傷する。
・良いことをすると、感謝される(こともある)。
・練習すると、以前より物事がうまくできるようになる。
・うさぎの餌やりに失敗すると、指を噛まれて痛い。

と雑多な例を挙げてみたが、これらのおおよそが子供時代に経験から学ぶようなことだ。

(上記の例は、私が実際に子供時代に経験から学んだことだ。私は幸運ながら比較的自由な子供時代を過ごせたと今では回顧できる。)

しかしながら、上記の例を経験する機会は、あわよくば大人の過保護の手によって奪いやすいものでもある。

それは大概にして、怒号や愛を盾にした脅しによる強制服従の要求によって行使される。
(大声で怒るは畏怖によって相手を服従させようという一方的な暴力的手段であり、説得・合意などという相互的で理性的な営みとは相容れない原始的行為である。)

それは愛ゆえ、といえばそうなのだが、どうにも短絡的発想で、理性が本能に食い殺させているようにも見える。

子供の身の回りのことは全部自分がやり、子供が自分の言いなりにならないと気が済まない。子供が少しでもおかしなことをすれば激昂し、子供が少しでも危険に飛び込もうとするなら激昂し、子供が少しでも自分の意見を言うと激昂する。
(これは、ある意味完璧主義的で、潔癖主義的な動態なのかもしれない。)

自ら行動する機会ないしは失敗をする機会、また自らの行動が引き起こした顛末に立ち会う機会を奪うことは、世の中の最も起こりうる因果の摂理の学習を阻害することになる。

良いことをする→だいたい感謝されて嬉しい→もっと良いことをしよう

というのが正当な因果だとすると、

良いことをする→【親に余計なことをするなと怒られる】→困っている人がいても助けない

という具合に、人工的な介入によって因果が歪められることというのは起こりうることだと思う。

これは子と親の関係を想定しているが、子供時代だけではなくどの立場でもありうることだと思う。

誰かを教育するということは、都合の良いように因果を歪めて対象が物理的に傷がつかないように保護し、人工的に作られた綺麗な世界のみを見せ続けることなのだろうか。失敗を全力で否定し、一定の綺麗さ(成功)のみをひたすら求め続けることなのだろうか。

何かを外部に対して出力する。すると外部から何かしらの反応が返ってくる。この営みの中から一定の法則を発見したり、その類推から新たな法則の発見の契機を掴む。

教育に必要なのは、人工的に因果を改ざんするような人工的態度ではなく、その行動摂理を最後まで観察し見届けてからフィードバックを送るような科学的態度が重要なのではないかと思う。

教育者は絶対でなければならないという遺物的発想が未だに根付いているのか、教育者の立場にある人はなかなか人の意見を聞こうとはせず、自分は正義そのものだと頑なに思い込んでおり、自らの非をなかなか認めようとはしない困ったちゃんが多い(もちろん全員ではないが、生徒相手に傲慢な態度の人は大体そうだ。)

とはいえ、やはり親であれ教師であれ上司であれ、誰かを教育する立場にある者は、生徒自身の体験による因果学習を阻害しないように、命に関わるような危険のみに介入し、失敗は安全に(?)失敗できるように見守り、過干渉による因果の乱れを起こさないように気をつけたい。