『自分の頭で考える』の違和感

以前にも増して、『自分の頭で考える』ということの大事さが強調されている。

答えのある問いを丸暗記するのではなく、答えのない問いに対して立ち向かうことが大事だと説いている。

『自分の頭で考える』は確かに大事なのだが、これを真っ先に唱えることについて私は違和感を抱いている。

【『自分の頭で考える』は最終手段であり、基本的には先人の劣化でしかない。】

これが私の考えだ。

要するに、
先人が一度考えた問いを我々がもう一度考えるなら、
先人の存在に目をつぶり一から“自分の考え”を持つのではなく、

まず先人はどういう考えを持ちその結果どうなったのかを先に調べて知り、

まだ誰も考えついていない考えは何か、
まだ議論されていない問いは何かを見つけた上で、
ようやく『自分の頭で考える』をすべきではないのかということだ。

例えば、『温室効果ガスを減らすにはどうすればよいか』というありふれた議題がある。

これをゼロベースで自分の意見を考えてとお題を出したとしても、本来自分オリジナルな意見で多種多様な意見が出るはずであるのに、
『節電しよう』『再生可能エネルギーの割合を増やそう』『ゴミを減らそう』『肉食をやめよう』など、大体だれもがこの辺の意見に終着する。

自分オリジナルの意見つまつ他者と異なる意見が期待されるのにも関わらずだ。

では、どうすればいいのか。

一つ考えられるのは、よく出る意見は先に全部教えちゃうことだ。

「こういう意見が既に出ているが、これではなかなか解決まで至っていない。これ以外に考えられる手立てはないか。」

という具合に問いを立てる。そうすると先人の知恵を踏襲した上で、その続きから議論ができる。

欠点としては、この手順が行われれば行われるほど、意見は考えにくくなるし飽和状態に達する。

しかし、この飽和の末に生まれた一滴の雫こそオリジナリティだと私は思う。

ここまでしないと、自分の頭で考えることの価値は生まれないのではないか。

もう一つの手段としては、誰も考えていない問いを見つけ考えることだ。

先人のいない問いではあなたが何を考えてもオリジナルになる。しかし、類似の問いがある場合が多いので、なぜを5回くらい深堀らないとなかなオリジナルな問いには到達しない。

以上2点を挙げたが、これらは『自分の頭で考える』を極端に美化した前提に基づいている。

ここまで、『自分の頭で考える』を『完全オリジナル思考』と定義して議論をしてきたが、実際はそうではないのであろう。

『自分の頭で考える』とは『既存の知識や既存他者の考えをいいとこ取りして組み合わせる』ということを言うのではないか。

つまり一から野菜を作るのではなく、スーパーで売っている食材を組み合わせて料理を作るのが『自分の頭で考える』ということなのではないか。

そう考えると、『自分の頭で考える』で大事なのは、“大量の知識・情報を浴びる”こと、“情報の質を判断するリテラシー”、“何が最も大切かを判断する判断軸”、“繋がりそうもないもの同士を繋げてみる発想力”あたりが大事なのだと思う。

つまり、ありふれた問いに答えることは、オリジナリティの側面からすると自分の考えを持つことにはなりにくく、全く関連のなさそうな2つの共通点を探してくださいの方が考えとしてのオリジナリティは強い。

思考を鍛える訓練としてありふれた問いで練習するというのはあるのかもしれない。

しかし、それはイントロダクションだけで十分だと思う。

せっかく『自分の頭で考える』のなら『自分の頭で考える』価値のあることを考えたいものだ。