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オフラインでの学びの場での気づき

-10月末〜11月上旬の気づき-

オープニング

2023年の10月31日から11月4日までは、色んな場所へ行って非常に忙しかったけど、その分色んな人と意見共有もできて実りの多い出来事がたくさんあった。
今回の記事は、その期間にあった大きなイベント3つで気づいたこと中心に言語化したものになる。よかったら最後までよろしくお願いします。

-UPDATANOW 23にリアルタイムで参加して-
「最先端のデジタルトレンドについて」

「〈基調講演〉2023年、意思決定の最前線」という時間では、たくさんの著名人、一線級の方々が登壇されていた。そこで最先端のDXやAIの使用例や使用状況、さらには今後のビジョンなども教えてもらえた。
コンセプトやパーパスを持つことで、企業に対する解像度が上がる。
HPで書かれている、出されている情報の背景をそういった人々に語ってもらえた。→「単にトレンドになっているから」や「そうしないと社会でやっていけない」といった、表面的な要素よりも、「今後の社会をどうしたいか」や「ステイクホルダーとの関わり方としての取り組み」と言った、より一歩踏み込んだ内容、会社内外に関わらず巻き込んで動かしていく意気込みが見られる話だった。

社会人参加が基本だったためか、展示ブースにはかなり実用的・実践的なサービスが多くあった。たくさんの会社さんが展示されていて、その中でも大企業さんが大半だった。けれど、かなり気さくにお話を聞かせてもらえたり、お互いの意見を共有したりすることができた。
また、体験型のブースもあって面白かった。健康経営を普及する目的でのサービスがあり、そのグループの人々が面白かった。自身の健康診断の結果が悪かったから、他の人と一緒に自身の健康を改善しようとする、「巻き込む力」の強さを感じられた。

全体を通して、セッションは、スピーカーさんが一人でずーっと喋っているだけの時間だったから、正直結構疲れた。面白くないというか、楽しくなかった。その一方で展示ブースでは、「なぜそのコンテンツを創ったのか・導入したのか?」といった、コンセプトや背景を教えてもらえると、そのサービスについての理解度が上がるという気づきを得られたからよかった。そのことをもう少し丁寧に述べると、コンセプトやストーリーを説明してもらうと、そのサービスが[単なるサービス]から[使ってみたいサービス][興味を持ったサービス]へとグレードアップする、ということだ。
この気づきから、たとえ大規模な展示イベントで数多くの人が来ることで忙しくても、このようなストーリーなどの【想い】が運営側と顧客との間に共有されていないと、どこか他人事のような受け取り方をされてしまうのではないかと考えた。
さらに、単なる目先の「人数」や「資金」にしか興味を持っていない集まりは面白くないし、パーパス経営への移行がこの先かなり重要になっていることの裏返しであることも強く気付かされた。
また、オフラインだからこそできる取り組みが、展示ブース内ぐらいしかあまりなかったし、交流会みたいな時間のないことにも驚かされた。おそらく、社内だけでPDCAサイクルのようなものを回せる大企業が多いから、そうなっているのかもしれない。さらには、社会人が集まるイベントという側面が強すぎたのか、イベント会場で仕事をせかせかと進めている人がたくさんいたし、アフターパーティや軽食スペースもなかったので、参加者同士のつながりのきっかけがなかった。
(せっかく大きなホテルでやっているのだから、可能だったと思うのは私だけ?)

皇居での一枚(撮影者:自分)
夜行バス明けのランニングで皇居外苑を走って、中でまったりしました。


-地球研オープンハウス2023に参加して-
「人と自然の超学際研究って、なんだ?」

※正式名称が「Research Institute for Humanity and Nature 大学共同利用機関法人 人間文化研究機構 総合地球環境学研究所」なのですが、ここでは「地球研」と呼ばせていただく。

率直な感想として、今回のような機会、イベントはもっと増えてほしい。大きな理由として、今回のイベントに参加して、このような場所は〈研究施設〉という側面を持ちながら、〈学びでつながる場所〉という側面も持っていることを強く感じられたことと、色んな大学の教授さんとのお話もできたし、なかには研究に関する刊行物もいただけたことを挙げる。最高だった!
このイベントには地域の小学生や子どもたちがたくさん来ていて、色んな催し物に積極的に参加している姿が見られた。その一方で、大学生や社会人たちにどうやってきてもらえるのか?という課題がより一層浮き上がってきたように思える。

また、【超学際的研究】をもっと社会へ普及・浸透させていく必要があることを再確認させられた。要因:実際に動かしているプロジェクトのお話を聞かせてもらって、色んな分野にまだまだ研究できる領域や解決しなければならない課題があることを痛感させられた。:プロジェクトの刊行物を読み進めていく中で、地球環境の問題には、現状の独立したミクロな学問領域では解決に辿り着くのが困難な領域があり、そこには色んな学問領域と繋がれる視野のようなもの、超学際的研究が必要になってくることを気付かされた。
さらには、地球環境の問題について考える場がもっと増えたらいいのに!いや増えるべきだ、という強い課題意識を持たせてもらえた。そして増やすためには、自分ごと化して行動に移す、という段階を各個人レベルで持つ、持っていくことが必要になる。これは、[Feel→Do]のような活動にも生かせる、つながる。
+α:子供たちが集まって参加していてスペースには体験型のブースが多かったことから、五感を通じた学びから発展しうる研究が想像以上にあることやまだまだ拡大できる潜在的な魅力を感じた。
少し本題から逸れる話だが、研究施設周辺にカフェや本屋といった場所ができてほしい。図書館が館内にあるぐらいで、周囲にはほとんど何もないから、このようなイベントが終わった後に参加者同士で意見交換できる場所がない。※収容人数が15〜20人ぐらいの小規模の方が好ましい。


ここからは、地球研の広報の方とお話しさせてもらったときに得られた気づきを、言語化したものになる。お忙しい中ありがとうございました。

地球研は、自分が気になったことに集中して、そのうえ色んな仲間とともに研究できる環境になっている。さらには、自然が身近にある環境でもあるし、歴史や伝統がある場所でもある。このことから、大学がこのような環境へと「変わる」(「戻る」という方が適切な感じがするが)と、もっと色んな分野の研究が広がるし、先へ進むことができると感じた(ただ、自分が他大学の状況をわかっていないので、一概にこのような意見を持つことが適切なのかはこの際置いておく)。そして、より実践的な研究内容の拡大の場所とより基礎研究領域の進展を可能にする場所との両立や連携が、これからは今まで以上に重要になるという気づきを得られた。
+α:具体例として、前者が今回の地球研やSTATION Ai のような場所を挙げる。
さらには、後者の役割を大学のゼミや大学院の研究機関のような環境が持っていけば、先に述べたような両立や連携が進められると考える。

ChatGPTなどの生成AIの利用の話では、もっと積極的に使える方向で進めていけば、勉強や研究の面倒くさいことが減り、「自分のしたいこと」に集中できるという内容に強く共感させられた。
※ただ、[1]仲介業者を挟む高額で無駄な作業がなくなることから、既得権益を持っている「[2]ジャマおじ」をどのように淘汰していくかが課題になると考える。
教授に出すだけで、細かいフィードバックのないレポート課題、大講義形式で一方通行なインプット学習、など現状それなりの数の課題点がある(しかも、そのレポートならChatGPTでも作ることができるし、その講義内容を動画に残せば個人のペースで進められる、といった解決案も見られる)ので、今は大学の新しい形が求められているタイミングなのではないのか?という疑問が出てきた。
その疑問への対応案として、理想的な大学について考え、そして、テクノロジーを用いて少数精鋭型学習ができたり、研究対象や内容、さらには学部や大学の枠を超えたつながりを持つことができたりする場所、という案ができた(多忙化による教授の研究機会の減少や、テクノロジーに関する倫理的制約の設定やテクノロジー利用に関する格差是正に対する取り組みといったより広範囲な業務の追加、といった課題があることも同時に考えられる)。

地球研の入り口(撮影者:自分)


-第9回Feel→Doに参加して-
「BKCウェルカムデーの一環として」

今回の体験を一言で表すと、”BKCでできることについて考える機会”だった。
BKCウェルカムデーという、地域の人々が多く集まるイベントの中での開催だったから、こういうテーマで話し合うのは面白いし、地域外の自分がいても「何それ?教えて!」ってなるぐらいの議論の内容があった。
また、大学と地域がより密接な関係になる(癒着や天下りといったネガティブな意味ではなく、地域の子どもたちが大学について知ってもらうことや子供と大人が集まれる、といったポジティブな意味での「密接」であることを念頭に入れてもらいたい)ためにはどういった取り組みがあれば良いのか、を考える機会でもあった。
そこでは、大学のキャンパスを使ったイベントが増えれば、人は集まりやすいし、そこに体験型の催し物があると、小学生たちも参加しやすいことがわかったし、地域の子供達が大学についての認知度・解像度を上げることができるし、より身近なものや自分ごとにできるものになる、という気づきも得られた。
さらに、このイベントの派生として、大学生と子供たちとが遊べる、大学生と小中高生とが学べる環境や機会を月1回程度提供できれば、より大学を主体的な環境にできるし、この環境は、勉強に対するモチベーションを向上させる、勉強する意義を見出すきっかけになりうる、と考える。
また、議論の中で出てきた、クリスマスやハロウィンといった季節性のイベントの一環として大学での催し物が行われる、というのも面白いなと感じた。ここから、[大学=堅苦しいもの]というイメージを変えられる取り組みになるし、大学がサードプレイスの一つになりうるという、可能性に近いものを感じた。
ただ、マスコットやお菓子など即物的な要素が議論の中でかなり多く出ていたが、そのような要素が多いと、どことなくその場しのぎになってしまうのではないか、という疑問も生まれた。

このイベントには滋賀県庁の人も来ていた。ここから、公的・官的な機関も、地域創生の取り組みの一つとして大学を活用していることがわかるし、大学という施設を大学生の時期しか使わないような人々も巻き込もう、とする姿勢が見えた。


全体を通して

勉強や研究の成果を発表できる、共有できる機会や環境がもっと増えてほしいを痛感させられた。それらの具体例として、[3]〈身体との付き合い方〉としての取り組みを体現したような学習機会がもっと生まれて、広まってほしい。その学習機会には、自然と触れ合う、自然と密着する体験を持てば持つほど、自分の身体の使い方を理解できるという側面もあれば、人新世の環境問題を自分ごと化したり課題意識を持てたりすることができるという側面もある、と考える。

 また、テクノロジーに対して、積極的に使う姿勢やマインドが大切であることを再確認させられた。地球研さんとのお話の中でも出てきたが、生成AIを用いたテクノロジーはまだまだ活躍できる余地がたくさんあるから、積極的に活用する必要があると強く感じた。地球研の【超学際的研究】が特定の学問領域を超えた学問の取り組みだから生まれた、芽生えた考え方やスタンスとも考えられる。

 今できることを通して、今後の未来がよりよく、もしくはせめて悪化のペースを遅らせることが喫緊の課題になることに強い焦燥感のようなものを感じた。
その課題解決の一例として、勉強を楽しんでいる人がもっと増える取り組みとして、「周囲の人や環境を巻き込んで行う学習」が必要になると考える。
〈本屋×塾×コーヒーショップ〉という形のサードプレイスを創りたい!
+α:SNSなどで、こういった取り組みを気軽に発表できて、生活の助けになるような環境が整えば、もっと多くの人が参入できる余白になっているのではないかと考えている。

ただ、セミナーや講義形式のオフラインイベントだと正直楽しめなくなってきていることに気づかされた。その内容が良かったことは言うまでもないが、どうしてもスピーカーと自分との間に溝や壁があるように感じてしまった。その一方で、ファシリテーターの存在がいかにセッションにおいて重要であるかも感じさせられた。
+α:Feel→Doでのブレインストーミングのような機会、POTLUCK YAESUでの間食コーナーのようなブースがあるイベントだと、色んな人のお話や考えが聞けるし、張り詰めた空気からリラックスできるから楽しいと思う。

エンディング

非常に長い文章でしたが、ここまで読んでいただきありがとうございます。
この記事を投稿するのにちょっと時間がかかってしまった。
お待たせしてしまったら申し訳ないです!
ただ、この前面白い体験があり、その記事も少しずつできた。
そちらも良かっったら目を通してみてください。
改めて、ありがとうございました!


ここからは、参考文献を記した部分になります。
前後の文脈での理解も必要であると考えているため、必要部分を抜粋して書いてあります。かなり長い文章になりますので、読みたいところをつまみながら読み進めてください。よかったら、その中で紹介している文献も読んでみてください!

[1] 【高収入の職業からAIに代替される
情報労働の市場を経済学的な視点から考えたとき、とてもパラドキシカルな未来予想図も見えてきます。
AIはクイズのような正解があるミッションが得意ですが、先述した通り、人間で正解を出すのが得意な人というと、東大や京大を典型とした偏差値の高い大学を出た人、ということになります。そして、そのような人が希望するのは基本的に給料の高い職業なんですね。典型的には医師や弁護士やコンサルタントといった職業です。こういった職業の共通項が何かというと「お客様が問題をくれる」ということです。これはまさに学校の試験と同じで、偏差値の高い人たちには非常にフィットがよいわけです。
さて、ここに面白いパラドックスがある。何かというと「正解を出すのが得意な人たちの給料は高い」ということは、株主や経営者からすると、こういう人たちこそ最も機械で代替させたい、ということです。
末端の労働者、労働市場で安い値段しかつかない人を代替させるのではなく、労働市場で最も高い値段のついている人こそ、AIによる代替のターゲットになる。この点こそが、これまでの産業革命と今回のAI革命の大きな違いです。
これまでの産業革命では、常に機械に代替されるのは労働市場の末端に位置する人たち、報酬水準の低い人たちでした。しかし、今回のAI革命によって代替されるのは、労働市場の頂上に位置する人たち、つまりエリートなのです。
1960年代のNASAのアポロ計画では、当時において最も安価な汎用コンピュータが人間だったから人間を宇宙船に乗せたわけですが、AIのほうが安いのであればそちらを使いたい。これはあらゆる産業において言えることです。なぜこれまで情報処理を人間にやらせていたのかといえば、それはコストが一番安かったからです。
これは見過ごされがちなポイントですが、非常に重要なポイントです。コンサルタントや弁護士や投資銀行のトレーダーなどに億単位の高額な年俸を払っているケースであっても、費用対効果で考えればそれが一番安かったのです。しかし、コンピュータの能力が向上して供給量が増えて、価格がどんどん下がっていけば、給料の高い人から順にAIに食われていくことになります。
これはなかなかに面白い状況で、職業がなくなるという議論においてはそういう観点が抜けているように思います。「将来なくなる職業」として、よく警備員や運転手が挙げられたりもしますが、年収200万円、300万円の人をAIに切り替えて人件費を削ったところで、経営はからすると大したインパクトは得られません。それよりも切り替えたいのは高い給料の人材なのです。
すでに、こうしたことが進行しているのが投資銀行のトレーダーです。2000年代の前半、東京の外資系投資銀行のトレーディングルームでは数百人単位のトレーダーが働いていて、その平均年収は1億円を超えるような状況でした。ところが今ではトレーダーが数人ほどしかいない。ほかはすべて自動的に売り買いするアルゴリズムに置き換えられてしまったわけです。
金融取引を効率的に行うことのできるAIを開発するためにはものすごくお金がかかるわけですが、トレーダーを100人雇ってそれぞれに年間1億円の給料を払えば、十年間で1000億円のコストがかかります。人間にそれだけの給料を払い続けることを思えば、その金額をAIの開発に回したほうがいい——。株式トレーディングの業界ではそのようなブレークイーブン(損益分岐)が起きているのです。
弁護士の世界でも同じようなことが起きていますし、医師の世界でもレントゲン写真の画像解析などはすでにAIのほうが優れている状況でGoogleも医療用画像認識AIの開発に参入してきました。
トレーダーも弁護士も医師も、これまで高収入だった職業で、そのような最も労働費用の高い人たちからAIへの差し替えが進んでいるのです。】

出典:『ChatGPTは神か悪魔か』P.63 1行目 ~ P.66 7行目
著者:落合陽一 山口周 野口悠紀雄 井上智洋 深津貴之 和田秀樹 池田清彦発行所:株式会社宝島社 2023年10月11日 第1刷発行 ISBN:978-4-299-04736-6

+α:【ChatGPTを活かしきれない日本企業】という部分(P.114 10行目〜P.116 7行目)には、日本企業や日本の経営者の意識的な問題点にも触れられている。

[2] 【ヒト関連でもう1つ触れておきたいことがある。それはおそらく500〜1000万人程度いると思われるミドル・マネジメント層の現状だ。この層の人たちが現在かなりの実権を握っているわけだが、残念ながらそもそものチャンスと危機、現代の挑戦の幅と深さを理解していない人が大半だ。また、この層にこそビジネス課題とサイエンス、エンジニアリングをつなぐアーキテクト的な人材が必要だが、ほとんどの会社で枯渇している。
ちなみに経団連のAI活用原則TF(報告書「AI活用戦略」2019年2月発表)の委員として検討した際の見立てでは、ほぼすべての企業にこのような人がいないという状況だ。
また、このような激変する時代に彼らが生き延び、未来の世代や事業のじゃまにならない人材であるためにはスキルを刷新しなければいけないが、身につける方法がわからない上、学ぶ場がない。このままでは、この方々が先に述べた既存業種を守るための規制をロビイングで山のように作り、日本のあらゆる産業の刷新を止め(少なくとも必死にやる必要はないという雰囲気を作り)、AIネイティブな世代を引き上げることもなく、この国をさらに衰退につないでしまう。「ジャマおじ」「ジャマおば」だらけの社会になってしまいということだ。
※TED×Tokyoの代表であるPatrick Newell氏の発案による言葉。「ジャマなおじさん」の意味なのだが、実に的確に現状を言い当てている。」】

出典:『シン・ニホン -AI×データ時代における日本の再生と人材育成-』P. 108 13行目~P. 110 8行目
筆者:安宅和人 発行所:株式会社ニューズピックス ISBN:978-4-910063-04-1 2020年3月13日 第3刷発行

[3] 【戦後、我々が考えなくなったことの一つが「身体」の問題です。「身体」を忘れて脳だけで動くようになってしまった。といっても、「そんなわけはない。頭痛もすれば肩こりもする」「体重が増えて階段を上るのがキツイことを自覚している」と仰しゃるかもしれません。ここでいう身体の問題とは、そういうことではありません。(P.88 2行目〜5行目)

軍隊と身体
ここでのキーワードは「身体」だったのです。かねてから、「身体問題」が戦後、日本が抱えていた共通の弱さというか、文化にとっての問題点だ、と私は考えていましたが、それが証明された、という感がありません。戦時中まで、身体を担っていたのは軍隊という存在でした。が、それで終戦で綺麗に消えてしまいました。以降、実は自分にとって一番身近な身体の扱い方を個人がわからなくなってしまった状態のままなのです。
日本の場合、三代、四代遡れば殆ど皆、百姓です。つまり都市の人間ではない。そういう人たちが、近代になって突然、あちこちで自然が都市化したのに伴っていきなり都会人になってしまった。
ここでいう「都市」とは、前章でも述べた脳化社会のことです。すなわち、人間が脳の中で図面を引いて作った世界が具現化している社会のことを指します。およそ都市というのは、まず人間が頭で考えたものを実際にそこに作る、という作業から出来ています。
日本では、この都市化に伴って、近代になって急に身体問題が発生してしまっている。恐らくは古くから都市化の歴史を持っている社会、中国やユダヤ人の文化というのは古くから都市化をしていったために、こういう問題はすでに済んでしまったのだと思います。(P.90 2行目 ~ P.91 5行目)

では、軍隊が消失した現在において、身体とどう付き合っていくのか。その問題への答えを、ある種の若者たちに提示したのがオウム真理教、麻原彰晃だったのではないか、それこそがオウム問題の重要な点だったのではないか、と思うのです。身体の取り扱いがわからなかった若者に、麻原がヨガから自己流に作ったノウハウをもとに”教え”を説く。それまで悩んでいた身体について、何かの答えを得たと思うものはついていった、ということでしょう。
オウムに限らず、身体を用いた修行というものはどこか危険を孕んでいます。古来より、仏教の荒業等の修行が人里離れて行われる、というのは、昔の人間の知恵だったのかもしれません。

身体と学習
身体を動かすことと学習とは密接な関係があります。脳の中では入力と出力がセットになっていて、入力した情報から出力の変化につながっています。
身近な例でいえば、歩けない赤ん坊がなん度も転ぶうちに歩き方を憶える。出力の結果、つまりここでは転ぶという経験を経て、次の出力が変化する、ということを繰り返す。そのうちに転ばずに歩けるようになってくる。
脳のモデルとして現在有効であると考えられている「ニューラル・ネット」というものがあります。これについては第六章で解説しますが、大雑把にいえば、このモデルを応用して、自ら間違いを訂正して学習していくプログラムを作ることが可能です。出力の結果によって次の出力を変えていくプログラム、と言ってもいい。これは人間の学習と同じ過程です。
例えばコンピュータに文字を識別させるプログラムを作る場合、こういう自ら学習するプログラムと、細かいところまで全て予め設定して識別するプログラムとでは、前者の方がはるかに効率が良く、簡単なプログラムで済むことがわかっています。

文武両道
ここで言えるのは、基本的に人間は学習するロボットだ、ということ。それも外部出力を伴う学習である、ということです。
「学習」というとどうしても、単に本を読むということのようなイメージがありますが、そうではない。出力を伴ってこそ学習になる。それは必ずしも身体そのものを動かさなくて、脳の中で入出力を繰り返してもよい。数学の問題を考えるというのは、こういう脳内での入出力の繰り返しになる。
ところが、往々にして入力ばかりを意識して出力を忘れやすい。身体を忘れている、というのはそういうことです。
江戸時代は、脳中心の都市社会という点で非常に現在に似ています。江戸時代には、朱子学の後、陽明学が主流となった。陽明学というのは何かといえば、「知行合一」。すなわち、知ることと行うことが一致すべきだ、という考え方です。
しかしこれは、「知ったことが出力されないと意味が無い」という意味だと思います。これが「文武両道」の本当の意味ではないか。文と武という別のものが並列していて、両方に習熟すべし、ということではない、ということだと思います。
赤ん坊でいえば、ハイハイを始めるところから学習のプログラムが動き始める。ハイハイをして動くと視覚入力が変わってくる。それによって自分の反応=出力も変わる。
ハイハイで机の脚にぶつかりそうになり、避けることを憶える。または動くと視界が広がることがわかる。これを繰り返していくことが学習です。
この入出力の経験を積んでいくことが言葉を憶えるところに繋がってくる。そして次第にその入出力を脳の中でのみ回すこともできるようになる。脳の中でのみの抽象的思考の代表が数学や哲学です。

大人は不健康
赤ん坊は、自然とこうした身体を使った学習をしていく。学生もさまざまな新しい経験を積んでいく。しかし、ある程度の大人になると、入力はもちろんですが、出力も限定されてしまう。これは非常に不健康な状態だと思います。
仕事が専門家していくということは、入出力が限定化されていくということ、限定化するということはコンピュータならば一つのプログラムだけを繰り返しているようなものです。健康な状態というのは、プログラムの編成替えをして常に様々な入出力をしていることなのかもしれません。
私自身、東京大学に勤務している間とその後では、辞める前が前世だったんじゃないか、というくらいに見える世界が変わった。結構、大学に批判的な意見を在籍中から自由に言っていたつもりでしたが、それでも辞めてみると、いかに自分が制限されていたかがよくわかった。この制限は外れてみないとわからない。それこそが無意識というものです。
「旅の恥はかきすて」とは、日常の共同体から外れてみたら、いかに普段の制限がうるさいものだったかわかった、ということを指している。身体を動かすことはそのまま新しい世界を知ることに繋がるわけです。
これもまた誤解されやすいので念のために付け加えておくと、別に転職の勤めをしているのではありません。大人だから環境を変えるには離婚とか転職しかない、と思われても困ります。同じことをずっとやっているようでも、その人の中での理解だとかプログラムの編成替えが行われる、というのは珍しいことではない。
(P. 92 6行目〜P. 97 4行目)
〜〜中略〜〜
若い頃ならば、「本と一致させられない自分の目がおかしいのだろうか」なんて思ったかもしれません。が、長い経験を経た今であれば、「これは本の方が間違っていて、自分の目が正しいのではないか」という可能性も考えることが出来る。長年の経験によって、同じことについても見方が変わってくることは珍しいことではないし、それは一種のプログラムの書き換えのようなものです。ただし、それには科学についての項で述べたように、常に検証の気持ちを持つ必要があります。
(P. 97 10行目〜P. 98 1行目)

出典:『バカの壁』著者:養老孟司 2003年4月10日第1刷発行 2021年12月10日第129刷発行 発行所:株式会社新潮社 ISBN:978-4-10-610003-1


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