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【エッセイ】 お籠り読書旅~ラムネ温泉に浸かりながら 小説の着想に至るまで~

長湯温泉に、2泊3日の予定で滞在した。別府や湯布院のようなメジャーな観光地とは違って、土地の規模としても小さく静かな環境のこの温泉を私は愛している。常宿は、B.B.C.長湯という自炊可能な宿泊施設だ。

――長湯に来て2日目、相当久しぶりにサルマン・ラシュディの『ムーア人の最後のため息』という作品を読んだ。このところ、歴史ものの『第二次世界大戦』3部作を集中的に読んでいて、ようやく下巻の3分の2ほどまでに来たのだけれど、なかなか他の本を読むことが出来ないでいた。

ここに着いて最初の晩は、なかなか切り替えが難しかった。

家では毎晩愛猫が「早く寝よう」「電気を消せ」と急かすので、全く読めない日もあれば、読めてもやっと数行という日々が続いていた。なので誰にも邪魔されずに好きなだけ本が読めるという環境に入ってすぐ、ジレンマ・・・・の解消に取りかかった。

と言うのも、猫には全く罪は無いからだ。彼はただ早く暖かい布団の中で飼い主である今ではすっかり〝親〟となった相手とくっついて寝たいだけなのだ。私が勝手に〝本が読みたい〟欲と〝愛猫を抱きしめて寝たい〟欲の間でジレンマに陥っていたのであって、ただそれだけのことなのだから。

とにかく、そういうわけで、貴重な最初の晩は、アントニー・ビーヴァーの『第二次世界大戦 下巻』に費やしてしまった。
それでもまあ、米軍が東京を空襲し、硫黄島を落とし、大戦を通じて最も無駄と言われた戦艦大和の出撃も行われたし(これについては知らなかった)、米軍は遂に沖縄に上陸し、激戦の結果、牛島大将が切腹して果て、遂に本土決戦に向けて焦点が当たるというところまで来たので、あと少しだ。あと少しで、この戦争は終わるのだ。

そして、明けて2日目。早起きして朝風呂に行こうかとも思ったけれど、今回は温泉というよりは〝お籠り読書〟が目当てなので8時までゆっくり寝、8時30分に宿が用意してくれる温泉で炊いたお粥の朝食を食べて、それからお昼までの間、たずさえて来た他の本達を少しずつ読んだ。

ここまで書いてきて突然思い出したのだけれど、夕べは私は他にも読んだ本があった。カズオ・イシグロの『忘れられた巨人』だ。あの本の中の登場人物達のように、自分ももの忘れに取り憑かれているのかと思うと、何だか可笑しいと同時に恐ろしくもある。この頃、大切なことも大切でないことも、フッと抜けたように忘れてしまう。カズオ・イシグロのこの作品は、これからどんな展開を見せていってくれるのか楽しみだが(なぜなら読み進めれば読み進めるほど、面白くなってきているから!)、小説を読み終える頃には、この(社会的な)現象に一石を投じるような何かを提示してくれるといいな、と思う。多分それが彼がノーベル文学賞を受賞した理由のひとつだと思うから。

午後になるまで、昨日読み止めたところから再び『忘れられた巨人』を読み、しばらくしてからサルマン・ラシュディの『ムーア人の最後のため息』を読み始めた。これは昨年、イシグロの作品よりも先に買い求めて読んでいたものだが、なぜか途中で気が散って、中断してしまっていたものだ。

ラシュディの文章は、難解だ。どの作品においても、読者に地理や歴史に対する一定レベルの知識を要求する。それは主に、彼の作品のほとんどが英印の関係性の歴史――植民地支配から独立、そしてその後の混乱までをも含む――とからんでいるからだ。マハトマ・ガンジー、チャンドラ・ボース、ジャワハルラル・ネルーなど、歴史上の人物が実名で登場する。そして、それだけでなく、インドの5000年の歴史に育まれ、今もなおインドの圧倒的多数であるヒンドゥー教徒達の心に生きる、神々についてもまたしかり。そして、それらの神々を信奉するインドの〝群衆〟それ自体も又、彼の小説の主要な登場者である。それに加えて、ラシュディの物語では、時代が目まぐるしく交錯する。現代の語り手の状況から始まり、おおよその時代設定と場所を把握出来たと思ったら、次の章ではもう主人公の祖父母の結婚前の物語になっている。そこではもう既に、主人公の一族の壮大な歴史が語られ始めている。祖父母、両親、主人公とそのきょうだい達が、時代の大きなうねりに翻弄され、時には地理的な移動を伴いながら、違いに反駁し、又は愛し合いながらそれぞれの人生を紡いでいく、というのが私のこれまでに読んだラシュディ作品でよく使われるプロットだ。

家族! ラシュディにとって、家族、一族というのは最も大きなテーマなのかもしれない。インドの裕福なムスリム家庭に生まれながら、イギリスに亡命・帰化した脱ムスリム者という〝スーパーマイノリティ〟であり、あまつさえあの『悪魔の詩』事件以来、暗殺者につけ狙われ公共の場所に1時間以上いられないという異常な生活を送っている彼は、生活を供にする妻や子供には不自由無く会えるだろうが、親兄弟や親戚達に会うということはなかなか容易ではないだろう。更に彼はその作品において、インドとイスラム世界の双方に対して背を向け、離別する態度を取っている。
それだけに、逆説的に、家族、一族、生まれ育った故郷というものに対する思い入れが人一倍あるのかもしれないと思うのだ。

――しかし、ひとつアイデアを拝借するとすれば、自分の家族というものほど小説の題材にしやすいものは無いと言えるかもしれない。あるいは、〝家族〟の物語を小説のメイン・プロットにするというのは。何しろ生まれた時からよく知っていて、血のつながりという切っても切れない絆で結ばれているし、常に身近な存在でいるのだから。更に、それが何世代にも渡る一族の歴史ということになってくると、年代記の様相を呈してきてより物語の深遠さが増す。自分(主人公)のルーツが関わる話ということになり、俄然がぜん読む人側からの興味も湧いてくるというものだ。しかもそれに地理的、歴史的な背景、どのように町が形成されていったか、人々はどこから来て、どのような理由でどの土地に根を張ったのか……。そういった物語のことを考えてみたら、ちょっとワクワクしてしまった。しかも、〝ラシュディ〟的な〝マジック・リアリズム〟を駆使して……。

そうでなければ、まじないのように一族の名前とエピソードが無限ループ式に連なっていくガルシア・マルケス的な物語になるというのもいい。想像しただけで、ゾクゾクしてしまう。
そんなことが私に出来るのか、それもどんなものになるのかまだ見当もつかないけれど、少しやってみようという気持ちが出て来ている。

面白いものが書けるといいな。とりあえずは模索しながらやっていこう。
でも、地に足は着いたまま。


―― B.B.C.長湯 鉄幹 にて 2018. 2. 9 ㈮

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