社会に抱きしめられたいという欲求 #未来のためにできること
今回も投稿企画に乗ってみます。
文藝春秋とnoteで「#未来のためにできること」をテーマに「文藝春秋SDGsエッセイ大賞2024」とした投稿コンテストです。以下本文になります。
ヴィヴィアンのハットを被って、代官山の蔦屋に来てる。洒落たシェアラウンジでこれを書いてる。買ったばかりのサンダルはブラジルのブランドと店員から聞いた。口紅はクリニークを使ってる。プチプラコスメはあまり好みじゃない。スイカジュースを飲んでいる。美容にいいらしい。
それでも私は障害者だ。そしてこれから先も障害者であることは確定している。何故なら、病気と違って治ることは無いから。
「社会」は集団と似ている。いや、集団が「社会」なのか。一人では言えないことでも「社会」になると押し寄せてくる。何がって、そんなの障害者差別に決まってる。普段あんたは意識していないだろうが、当の本人からすると差別のシャワーを浴びせられてる感じがしてむず痒い。
法律も「障がい」とか「障碍」でもなくずっと「障害」の害のまま。だからといって言葉一つで差別が無くなるわけじゃない。LGBTQが持つレインボーカラーみたいなシンボルも無いから、訴えたところで記憶に残らない。一応発達障害の名前が広がったおかげで精神障害者を中心に障害者は増えているけど、社会はそれに対して何を考えてるのかな。
差別を解消するには。
差別を解消するには、特別給付をすることが正しい術なのだろうか。
身体障害者用に誰でもトイレを増設し、知的障害者用に書き物にはふりがなをつけ、増加する精神障害者を受け入れる企業へメリットをもたらして、障害者を救うのが正しい術なのだろうか。
どれが正しいかなんて誰にも分からない。だけど、私はそんなの別に要らない。違う。どれも違うの。
ただ、ただ、「社会に抱きしめられたいの」。
障害者を見捨てないで、そんな目をしないで、同じ「人」として見てよ。
足が無くても手が無くても、私みたいに脳に障害があるから見た目で分からなくても、そう、何があっても何も変わらず接して欲しい。
君の居場所はあると、ここにいて欲しいって社会に言われたい。
あなたに言われたい。
一人一人に認められるのが、「社会に抱きしめられる」ことだと思う。
だからそう、気張らないでよ。緊張しないで。
私は化けものじゃない。気遣わないでいいんだって。
私だってさ、あんたと同じ「人」なんだよ。
手、繋いでいこう。
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