どんぐりのおなか

自分と誰かの足場になるnote。

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不器用な父と、不器用な娘と、その妻であり母である彼女の話。

初任給といえば、家族になにをしてあげようか。 わたしの職場がそんな話題で持ちきりになったのは、ちょうど今から1年前のことだった。銀行のアプリを開くと、たしかに入社してはじめての「給与」が入金されている。新卒の同期が多い職場だったから、みな一様に浮足立って、家族を喜ばせるべく作戦会議がはじまっていた。 わたしはそれを横目に見て、適当な相槌でかわし続ける。パソコンを叩く手は止めない。面と向かって家族になにかしようだなんて、しかも一緒に住んでいる家族にだなんて、照れくさくてそわ

    • 題するまでもない話。

      久しぶりに、東京駅を訪れた。 飛びかう日本語と、あとそれと同じくらいの外国語。大きなバッグを引く人も目立つ。来た人、行く人、どこからどこへ。雑多というのか多様というのか、そんな言葉が妥当な気がした。 大学時代、ここは自分の通学路だった。自分の田舎くささを隠すように、少しの所在なさを悟られないように、肩で風切るような思いで歩を急がせる日々だった。スマホの地図を片手にきょろきょろと立ち止まる人たちに、なぜか勝った気持ちになろうとした。誰も自分のことなど見ていないと、当時から分

      • ほんの小さなさみしさの話。

        これは自分でも、自分に共感できない感情なのかもしれない。 たった今まで自分だったものが、そうでなくなる瞬間が、無性にさみしく思えることがある。散髪だとか、爪切りだとか。人生で何百回と重ねてきたその行為に特別な意味はないのだけれど、なんかちょっと、せつなかったりする。 苦しかったあの瞬間を、一緒に乗りこえたのになあ。明日からも一緒にがんばる相棒だと思ったのになあ。切ったのは自分なんだけど、そんな気分になる。 物にたとえたら、もう少し共感してもらえるだろうか。 運動部だっ

        • がんばれない日の魔法の話。

          なんか今日は無理だな、そういう日も結構ある。 はっきりとした理由があることもあるし、ただなんとなくの無理もある。低気圧にめっぽう弱いので、そろそろつらい季節がくるなあと構えていたりもする。 あ、今日がんばれない日だ。 そういう悲しい朝とも仲良くなれる、そういう魔法があったらいいのにと、思う。思う。思った。思ったのだ。 思ったから、魔法をつくった。なんか無理な日も、がんばれない日も、いつだって自分がご機嫌になれる、そういう魔法。 鏡にむかって、丁寧に髪を整える。爪の形

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        不器用な父と、不器用な娘と、その妻であり母である彼女の話。

          将来への不安とどう向き合うかって話。

          10年後のキャリアプランとか、どうなりたいかとか、まだ分からないんです。 これまで出会ってきた概算2000人の大学生たちは、多くがこんなことを言っていた。あるいは、「こうなりたい」を言葉にできる学生にしたって、一緒に考えているうちに「あれ、やっぱりそうじゃないような気がするぞ」と足が止まることも多かった。 新卒の学生たちの、いわゆる「ファーストキャリア」を考える仕事をしている。各々がそれぞれに悩んで迷っているわけだけど、顕在化しているかどうかは別として、「将来」というワー

          将来への不安とどう向き合うかって話。

          ら抜き言葉というやさしさの話。

          食べれる。寝れる。考えれる。 いわゆる「ら抜き言葉」といわれる言葉たちだ。食べられる、寝られる、考えられる、が正しいと習ったし、SNSには「その日本語おかしいですよ警察」があふれている。 ら抜き言葉は、文法的におかしな表現ではあるし、こうして文字にしてみると、やっぱりどこか違和感がある。だから、テストやオフィシャルな文書に使うのは避けておいたほうがよいのだろうと思う。 思うのだけれど、だからといって「間違っている!」と断罪されるような言葉なのかといわれると、それとこれと

          ら抜き言葉というやさしさの話。

          「選んだ道を正解にする」に逃げていた話。

          選んだ道を正解にする。 大学生から社会人1年目くらいにかけて、これが自分の座右の銘だった。就活でもそう話したし、広報誌の取材を受けたときにもそう答えた。 この短い言葉を、本当に大切にしてきた。何度も救われ、支えられてきた。この言葉なくして今の自分はないと思うし、その意味で「自分の人生になくてはならなかった」ものなのだろうとも思う。 でも、なくては「ならなかった」なのだ。あるときから、座右の銘にこの言葉を答えなくなった。 社会人1年目のある日、本当にふとした瞬間に、自分

          「選んだ道を正解にする」に逃げていた話。

          天国の猫しか知らない秘密の話。

          飼い猫のおなかを蹴ったことを、今日まで誰にも言わずにいる。 生まれたときから猫がいる家庭だった。名前はモモ。自分が小さいもんだから、モモを自分より弱いものだとか守るべきものだとか思ったことはなかった。 モモは、赤ちゃんだった自分を守ってくれていたんだよ。あったかくてふわふわしたものには、優しくね。小さかった自分に、母はよくそんな話をした。なるほどそういうものなのだな、とそのとおりにした。 遊んでいるとぬいぐるみに交じってモモが並び、遊びつかれて眠ってしまった自分の横には

          天国の猫しか知らない秘密の話。

          「本当」を探している話。

          Bombについてどう思う? 中学3年生の夏、留学先のオーストラリアで、見知らぬ青年にそう尋ねられた。ホストマザーとファストフード店に行って、外で待っているときに話しかけられたのだ。 悲しいことだと思う。もう二度と起こってほしくない。でもアメリカにも何かしらの理由があったんだと思う。 そんなことしか言えなかったと、10年近く経った今でも覚えている。恥ずかしかったのでも、悔しかったのでもない。ただ「面食らった」。そのときの感情を、今でも忘れられずにいる。 ほかに言葉が出て

          「本当」を探している話。

          入学式のにおいがする話。

          季節のにおいを感じる、という人は案外多い。 自分もそのひとりである。春には春のにおいがあるし、夏にも秋にも冬にもそれぞれのにおいがあると思う。季節が変わるにおい、たとえば春と夏の境目のにおいとか、そういうのもわかる。 これがほんとうの「におい」なのかどうかは、分からない。嗅覚で感じとっているような気もするし、なんとなくそうじゃないような気もする。 雨のにおいは、はっきりと「におい」だと思う。自分の鼻がそれをつかまえる、その瞬間がはっきりと分かる。 なにが違うのだろうか

          入学式のにおいがする話。

          タコジローだった話、そしてタコジローである話。

          子どものころから、文章を書く子だった。 誰かにそうしろと言われたこともないし、そうすることで得をしたことも、そんなにない。でも、書くことが好きだった。 小学校の作文は、いつも原稿用紙15枚くらいは書いていた。「明日までに書いてきましょう」と言われても、それくらいは苦にならなかった。運動会の作文を書く宿題に、組体操のことだけを原稿用紙30枚にして出したこともあった。もちろん誰もそんなこと頼んでいない。先生もさすがに驚いた様子だった。 別に、褒められたいからそうしたわけでは

          タコジローだった話、そしてタコジローである話。

          大人になるのが怖かった20歳前夜の話。

          スマホのメモにこんなものが残っている。日付は20歳の誕生日前日、19歳最後の夜に書いたものだ。 これを書いたときのことは今でも覚えている。一緒に住んでいた家族に見つからないように、泣いているのがバレないように、自室で隠れて書いた。普段あまり使っていなかった自分の部屋にはティッシュすらなくて、鼻をすすったら気付かれてしまうから、なるべく上を向いて書いた。赤いパーカーの袖が、涙で黒っぽくなった。 このときは、「大人」になってしまうことが、もう二度と「子ども」には戻れないことが

          大人になるのが怖かった20歳前夜の話。

          noteをはじめてみようと思った話。

          noteをはじめてみようと思った。 急にそう思ったわけではない。前々からやってみたいと思っていた。書くことが好きで、ふとやってくる書きたい衝動にそのやり場を与えたいと思っていた。 誰に向けて書くわけでもないのだけれど、いつかどこかの誰かの目に入ることもあるのかもしれない。入らなかったらそれでもいい。ひとまず自分のために自分の書きたいことを書くだけになるんだと思う。正しく書こうとかうまく書こうとか、そういうつもりもそんなにない。 でも、いつかのどこかの誰かとか、もしかした

          noteをはじめてみようと思った話。