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タコジローだった話、そしてタコジローである話。

子どものころから、文章を書く子だった。

誰かにそうしろと言われたこともないし、そうすることで得をしたことも、そんなにない。でも、書くことが好きだった。

小学校の作文は、いつも原稿用紙15枚くらいは書いていた。「明日までに書いてきましょう」と言われても、それくらいは苦にならなかった。運動会の作文を書く宿題に、組体操のことだけを原稿用紙30枚にして出したこともあった。もちろん誰もそんなこと頼んでいない。先生もさすがに驚いた様子だった。

別に、褒められたいからそうしたわけではなかった。書きはじめると止まらなくなるだけで、当時は「書くのが好き」とも「楽しい」とも思っていなかったような気がする。

反面、書いたものを読まれるのはとても嫌がる子だった。だから作文の宿題が出たときは、学童ではぜったいにやらなかった。母の迎えがどんなに遅くても、家に帰って自分の机に向かうまで、原稿用紙を出さなかった。

中学生になるころには、小説を書いてみるようになった。当時の自分には「書きたい」という衝動をぶつけられる手段が、手書きの小説しかなかったからだ。それもやっぱり、知っている人にはぜったいに見せなかった。

結果的に現在に至るまで、小説を書きあげられたことはただの一度もないままだ。未完のまま、机の引き出しに眠っている。

文章を書くのが好き。それは変わらないのに、小説を書きあげることができなかった。当時の自分にはそれが、どうにも不思議であって、ショックであって、悲しいことであった。


自分にとって「書く」ということがなんなのか。それが分かってきたのは、つい最近のことのように思う。

書くことは、呼吸することであって、眠ることであって、生きること。それが、今の自分の答えだと思った。

小さいころ、自分の思っていることが言えない子だった。注目されたら顔は赤くなるし、涙目で声は詰まるし、頭が真っ白になってしまう。古賀史健さんの言うところの、「思うと言うの距離が遠い」子だった。タコジローである。

だからといって、決して頭の回転が遅いタイプでもなかった。頭は回る。言葉は詰まる。喉元が大渋滞を起こすのが茶飯事だった。

今にして思えば、そういう声にならなかった言葉を吐き出せる相手が、紙であり、ペンであり、そして「書くこと」だったのだろうと思う。だから別に、小説だとか創作だとか、そういうクリエイティブなことは得意じゃなかった。なんなら苦手だった。

もうひとつ、「自分が何を思っているか知られること」も、苦手だった。人前で話すことそのものが嫌だったわけではないことに、高校生のころには気付いていたような気がする。引っ込み思案だった小学生は、気付けばマンモス高校で生徒会長をしていた。クラス委員だったし、合唱コンクールでは指揮台に立った。なにかといえば「学年代表」に選ばれるようにもなった。「自分」ではなく「なにか」でいればいいときは、むしろ饒舌だった。

そしてそれはぜんぶ、今でもひとつも変わらない。書くことは得意。クリエイティブは苦手。自分が思っていることは知られたくない。役を与えられるとそのとおりに振る舞える。組織に所属するにおいて、その得意は案外重宝された。求められたとおりに、言葉が出てきた。

だからこそ書かなければ、息ができなかった。休まらなかった。生きてこられなかった。

誰かが求める自分と、相変わらずタコジローな自分。そこに距離が生まれ、次第に広がり、離れていくたびに、ちいさなタコジローが泣いていた。書くことは、その距離を埋めることであって、タコジローに手を差し伸べることであった。タコジローがいつか絶望して、いなくなってしまうことが怖かった。

今までも、これからも、書くことの理由はそれだけなのだろうと思う。タコジローがもう泣かないように、いなくならないように。あの日にうずくまったまま泣いているちいさな自分を、迎えに行くために。

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