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ら抜き言葉というやさしさの話。

食べれる。寝れる。考えれる。

いわゆる「ら抜き言葉」といわれる言葉たちだ。食べられる、寝られる、考えられる、が正しいと習ったし、SNSには「その日本語おかしいですよ警察」があふれている。

ら抜き言葉は、文法的におかしな表現ではあるし、こうして文字にしてみると、やっぱりどこか違和感がある。だから、テストやオフィシャルな文書に使うのは避けておいたほうがよいのだろうと思う。

思うのだけれど、だからといって「間違っている!」と断罪されるような言葉なのかといわれると、それとこれとは別問題なんじゃないかとも思ってしまう。


大学時代は4年間、「日本語」という言語についてひたすら研究をしていた。時代を問わず、地域を問わず、日本で使われてきた言語を集めて、比べて、考えた。現代では使われなくなってしまった文字を読んだり、訓点のない漢文を読んだり、苦労なくそういうことができるようになった。そうやって、言語の変遷をたどった。

だから、「言語は移りかわるものなのだ」ということを、人よりも少しだけ実感をもって、知っているのだと思う。ら抜き言葉もそうなのだとすぐに腹落ちするし、そうだからして、「間違いだ」と断罪するよりも「なぜだろうか」に意識が向く。

ひとつ、単純に言いづらい、というのが理由になりうるだろう。「られる」というラ行の連なりが、人によっては発音しづらいんじゃないだろうか。かくいう自分も舌足らずで、ラ行の音がそんなに得意ではない。

で、もうひとつ。こっちが本題。「られる」から「ら」の音が落ちた、その間隙に、人が人を思いやる気持ちがあるように思うのだ。


「先生が、まだ食べられるって言ってたよ」。この1文を、どう読むか。

先生は、まだ胃袋に余裕があって「食べることができるよ」と言ったのか。それとも、先生は「食べる」としか言っておらず、話し手が先生を持ち上げて「召し上がるそうです」と伝えているのか。文法的な言いかたをするなら、「可能」なのか「尊敬」なのか、という問題だ。あくまで所感だが、なんの前提もない状態だと、前者で読みとる人が多いような気がする。

そう、「食べられる」という表現には、受け手に依存した認識のズレが生じるのだ。大して意味は変わらないからいいじゃないか、という考えかたもあるのだろうけれど。

じゃあ例えば、登場人物を3人。母と、娘と、娘の担任の先生とでもしてみる。家庭訪問に来た先生に、母親はお茶菓子かなにかを出した。台所に立つ母親から、先生の様子は見えない。娘に、「先生の様子を見てきておくれ」と頼むと、戻ってきた娘は「先生、まだ食べられるって」と言う。

さて。もしかすると先生に提供した皿はすっかり空になっていて、「先生、もっと食べる?」「じゃあ、お願いしようかな」という会話があったのかもしれない。それならば娘の言う「食べられる」は、「もっとお菓子を出してください」という意味になる。

でも、そうじゃないかもしれない。先生は急な電話で一時的に席を立とうとしていて、それを見ていた娘に「これ、まだ食べるから置いておいてね」と言い残したのかもしれない。もしそうなら、追加のお茶菓子は必要ない。

当たり前なのだけれど、言葉の意味が変わると、そこに続く行動が変わるのだ。だから、できれば誰が聞いても同じ意味に聞こえる言葉であってほしいのだ。


「食べられる」から音をひとつ落として「食べれる」にする。もしかするとそれは、自分の言葉を誤解なく受け取ってもらいたかった人のエゴなのかもしれないし、受け手が迷ってしまわないようにという配慮、やさしさだったのかもしれない。

言語は生きていて、時代とともに姿を変える。よく言われる話だ。ら抜き言葉がその過渡期にいるから目くじら立てたくなるだけで、未だに「まねぶ」とか「ありく」とか言う人がいるとしたら、そっちのほうがよっぽど違和感じゃないだろうか。

文化庁が「ら抜き言葉は誤用です」と言っているようなので、とりあえず今のところ「正しい日本語」ではない。それは事実。でも、そのうち「可能表現としての使用は問題ない」とか発表してくれるんじゃないかなあと勝手に期待している。「とんでもないです」誤用論とかもその類で、すでに文化庁から「使っていいですよ」とのお触れが出ている(このあたりは大学時代に調べつくした)。

けどまあ、積極的に使うかどうかは置いておくとしても、「ら抜き言葉だ!間違いだ!」と大騒ぎする前に、「なんで抜かしたんだろう」と想像する心の余裕くらいはあってもいいんじゃないかと思う。少なくともそのとき、「食べれる」が「食べることができる」という意味であると、あなたは読みとれているんだろうから。


「食べれる」と聞けば「うんうん、言いづらいよね」と思うし、「食べれる」を見れば「そういう配慮をしてくれたのかな」と想像する。新しいものへの抵抗は誰しもあるものなのだけれど、これも時代の変化かと甘んじて噛みくだく。

まだ20代の若造としては、うんたら警察よりもそっちのほうが、よっぽどかっこいい大人だと思えてしまう。とりあえず、しばらくはそうやって生きてみようと思う。

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