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「選んだ道を正解にする」に逃げていた話。
選んだ道を正解にする。
大学生から社会人1年目くらいにかけて、これが自分の座右の銘だった。就活でもそう話したし、広報誌の取材を受けたときにもそう答えた。
この短い言葉を、本当に大切にしてきた。何度も救われ、支えられてきた。この言葉なくして今の自分はないと思うし、その意味で「自分の人生になくてはならなかった」ものなのだろうとも思う。
でも、なくては「ならなかった」なのだ。あるときから、座右の銘にこの言葉を答えなくなった。
社会人1年目のある日、本当にふとした瞬間に、自分がこの言葉を言い訳にしてきたことに気付いてしまったからだ。なぜこのときに気付いたのかは分からない。「選んだ道を正解にしよう」と思うことは、少なくとも自分にとっては、逃げだったのだと悟った。
要は、体よく問題を先送りにしていただけなのだ。自分の意思でこの道を選んだのだ、あとは自分の手で正解だったと思えるようにしよう。もっともらしいその考えは、大いに耳ざわりよく、そして大いに都合がよかった。
だって、「考える」「決める」という行為はとても怖いことだから。ものすごく難しいことで、ものすごくカロリーを消費することだから。だから、できればやりたくないことだった。
とはいえ考えなければならないし、決めなきゃいけないこともたくさんある。その責任から逃げるわけにはいかない。無責任なやつだなんて思われたくないし、自分自身に絶望したくもない。
その不安も、逃避も、使命感も、すべてを包んでくれる魔法の言葉があったのだ。選んだ道を正解にする。なんて素敵な言葉だろう。なんて都合がいいんだろう。
約4年もの間、自分はそのことに気付かなかった。本当に、本気で、「選んだ道を正解にする」という気概で生きていた。就活でも取材でも、あなたの生き方はと問われるたびに、鼻高々にそれを語ってきた。
でもそれは、「選ぶ」に責任を持てなかった弱い自分が、「正解」にしようとする未来の自分に問題を放り投げ、圧力をかけていただけのことだった。正解にしようと地面に這いつくばりながら、「なんのために正解にするんだっけ」と足を止め、「いや、選んだ道だから正解にしなければ」ともがいてみたりもした。
多分、順番がちがうのだ。
そのとき持てるすべてで、全身全霊をもって、死力を尽くして、死にものぐるいで、「選ぶ」をしなければならない。考えて、考えて、また考えて、もうこれ以上は考えても仕方がないと思えたとき、ようやく「選ぶ」ができる。それだからして、「あのときあんなに苦しんで選んでくれた過去の自分に、なんとか一矢報いてやろうじゃないか」と、未来の自分がもがいてくれる。「正解」は、そうやって生まれるものなのだ。
社会人1年目のある日、そんなことを考えた。その日から、「座右の銘は?」への答えが見つからずにいる。
最後まで読んでいただきありがとうございます。またぜひ遊びに来てください^^