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#神のひとり子
何のために「赦し」をしていくのか、しっかりわきまえて実践していきましょう
「赦しの視点」「赦しのまなざし」とは赦しの視点とはいったいどのようなものなのでしょう?
それを、一言でいうなら、
We are all the same.
私たちすべては一緒(同じ)
というところからすべてを包含して見ている視点だと言うことができます。
それは、奇跡の第一原理である「奇跡に難しさの序列はない」に基づいた見方です。
そこから見るなら、「どれが正しくてどれが間違っている」とい
救済されるべき者とは他の誰でもなく自分である
「菩薩」について仏教では、「菩薩」という言葉(概念)があります。
「菩薩」とは、仏陀(覚者)へと至る途上にいる修行者のことを意味するだけでなく、それと共に、他の衆生を救済するためにこの世に留まり続ける修行者のことを、そう呼んでいます。
「他の衆生を救済するためにこの世に留まり続ける」
ということから見るならば、
菩薩の生き方はなんと素晴らしいことでしょう!
というふうに私たちは思いがちで
自分の中が空っぽであるとわかるとき、他者の中も空っぽであるとわかります
「夢を見ている者」の自分を自覚していくプロセスについてふだん、私たちは、「私」は存在していると思っています。
それに対して、非二元の教えに触れていくとき、「私はいない」ということを学んでいくわけです。
もちろん、コース(奇跡のコース/奇跡講座)のテキストやワークブックでも、以下のような表現で述べられています。
コースは、私たちは何も見ていない、何も聞いていない、何もしていない、何も感じていな
コースの学びが深まっていくとき、どのような知覚になっていくのか?
この世界に神聖なものなどないコース(奇跡のコース/奇跡講座)の学びが深まっていくとき、どのような知覚になっていくのか?
そのことについて書いてみたいと思います。
まず、コースの思考体系が根付いていくとき、この世界のもの、そして、この世界で起きていること、そのすべてが自分とは無関係ではなく、むしろ、自分に属するものというふうに知覚するようになっていくといえます。
そう、すべてが自分の心の中で
個別の「私」から、一なる心である「私たち」へ
私はいない私は肉体ではない。
もっといえば、「私」というものはいない。
「私」というものがない。
コース(ACIM/奇跡のコース/奇跡講座)の学びが深まっていくにつれて、そのことが体験的分かってくるようになります。
つまり、「私」というものも自分がでっち上げた想念でしかないと理解するようになっていくということです。
さらには、個別性、特別性、個人性というものが、いかに馬鹿げて狂った想念
自分はいない、それはつまり、自分は全一なるひとり子であるということ
「心を忘れた状態」から「心を自覚した状態」へ私たちは自分たちのアイデンティティーを忘れて、肉体の自分とすっかり同一化してしまった状態になっています。
それを、「心を忘れた状態(マインドレスネス)」と呼んでいます。
自分はこの世界の夢を見ている「心」なのだということをまったく忘れているわけです。
その「心」である自分を思い出していくための手段として、コース(ACIM/奇跡のコース/奇跡講座)