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執着からの卒業

人生において、それが執着であると気づくのに時間がかかる場合がある。そしてそこから卒業するにはそれ以上に時間がかかるしメンタルに負荷もかかるし、さらにお金もかかるかもしれない。

それでも、執着から解き放たれることほど自分を取り戻せるものはないと思う。

執着(しゅうちゃく、しゅうじゃく[1]、abhiniveza अभिनिवेश (sanskrit))とは、仏教において、事物に固執し、とらわれること。主に悪い意味で用いられ、修行の障害になる心の働きとする。(Wikipediaより)

仕事も恋愛も結婚も、時折この「執着」があることでこじれることが多い。今になっていろいろとわかってきた。

仕事での執着

一番最初に訪れた「執着」からの卒業は仕事でだったと思う。転職活動がまさにそれだ。

小学生のころから塾講師になりたいと思っていたわたしは、一浪の末大学生になりアルバイトでその夢を叶えてしまった。その先のことは何も考えていなかった。講師になりたての頃はこのままずっと過ごすんだろうと思っていたが、様々な体験をし社会を経験し知識を得ることで、このままではない道を選ぶことにした。

ただ、気づいた時期が大学4年の4月と遅く、さらに当初もっとも就職氷河期と呼ばれていた時期だったことも重なって、就職活動をにわかに始めてもなかなか難しい状態だった。そんな状態で選び内定をゲットした就職先の1つだったのだが、やっぱり働き始めるまではずっとこのままここで過ごすんだろうと思っていたのだ。

働き始めるとまた様々な体験があり知識を得る。自分の興味と仕事のギャップも生まれてくる。そのとき初めて「なぜこの会社で働いているのか?」と疑問を持った。それが仕事上で一番最初に訪れた執着に関する気づきだ。

自問したのにこの「なぜ」に答えられなかったのだ。理由もわからないのにこの会社にいるってどういうこと?

そしてわたしは本当に自分が興味を持てるほうへ転職した。給料はとてつもなく下がったけれど。

その後さらに2回も転職活動をして、今の会社は気づけばもう11年以上働いていることになる。会社内でやることが2~3年毎に変わっているので、長くいることに驚くほどだ。都度面白いと感じられているから長く働けているとも思っている。

半年ぐらい前だが、新卒入社した会社の内定を出してくれた人事の人と20年近くぶりにオンライン飲み会で再会した。懐かしくうれしい面もあったのだが、発せられた言葉に少しがっかりしたのも事実だ。ご年齢や業界の一般常識のようなものがあるんだろうと察することもできるが、今の自分にはとてもつまらない発言だった。あまりにがっかりしたのでもうどんな発言だったかすら思い出せない。ただ、改めてあのとき「執着」を捨ててよかった、と力強い確信が持てた。

恋愛での執着

今思えば「執着」だったのかもしれないと思う恋愛が1つある。

今となってはもう恋愛感情というよりは、友だちというか兄のような存在だと思う。恋愛対象としては見れなくなってしまった。あれだけ「執着」していた気がするのに。

bar bossaの林さんは男女間に友情は存在しない派で、わたしも常々そう思っているが、この人とだけは友情が成り立っていると思っている。ただ友情というよりは、向こうもわたしのことを時々世話のかかる妹のように見ている気がしている。

お互い普段一緒にいなくても連絡を取らなくてもまったく気にならない。「ちょっと聞きたいんだけど、〇〇について。なんかやってたよね。」とか「××についてこんな話を小耳にはさんだけど、知ってる?」とか。お互い共通の結構マニアックな話に関してやり取りすることはある。そのついでに、わたしが今のパートナーの惚気話をしたりもする。この人はそれをふんふんと嫌な顔ひとつせず聞いてくれる。

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