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父の小父さん

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#日本近代文学

父の小父さん 作家・尾崎一雄と父のこと 29

父の小父さん 作家・尾崎一雄と父のこと 29

この二月、私は父の住む家の隣へと引っ越ししました。もともとは父が営んでいたハンドバッグ製造会社の建物で、木造モルタルの築五十年超の家をリフォームして住んでいます。

五十数年前、ここに移ってきた時は、私は幼稚園の年長さんでした。それまで自宅と父の仕事場は歩いて十分ほどの距離があり、引越しにより職住超接近となりました。同じ葛飾区の、鎌倉町から柴又へ徒歩圏内の引っ越しでした。

住宅は平屋で、会社の建

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父の小父さん 作家・尾崎一雄と父のこと 25

父の小父さん 作家・尾崎一雄と父のこと 25

神奈川県の小田原にある「小田原文学館」には、尾崎一雄さんの書斎が移築されています。他にも、大量の蔵書や関連資料が松枝夫人からの寄贈により保管されています。父の書棚にあった収蔵品目録を見ると、尾崎さんが生涯手元に置いていた手紙の数は膨大で、しかもその幅広さに驚かされます。交流のあった文士たちの手紙はもちろん、父を始めとする一般人の知己からの手紙も多く、その中には、なんと私と妹が連名で書いた手紙まであ

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父の小父さん 作家・尾崎一雄と父のこと24

父の小父さん 作家・尾崎一雄と父のこと24

作家の尾崎一雄さんが書いた父と父の家族を題材にした作品だけで一冊にした本があればいいな、と私は密かに思っていました。ある日、父の書棚から尾崎さんの出版目録なる立派な和綴じ本を発見し、ページをめくっていたところ、なんとあったのです。尾崎家と父の家族が出会った上野櫻木町の路地の人々を描いた『ぼうふら横丁』、東京大空襲で全滅した深川の山下家のことと父の行方を捜した作品『山下一家』、そして、父と再会した時

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父の小父さん 作家・尾崎一雄と父のこと9

父の小父さん 作家・尾崎一雄と父のこと9

私が小学校高学年、いや中学生か、な頃、父から小倉百人一首の上の句と下の句を書き分けた赤いリングノートをもらいました。父はなかなかの達筆で、むすめふさほせ、の一枚札から始まる端正な文字が並ぶノートを、私は長いこと大切に持っていました。時間があるときには、声を出して読みながら歌を暗記したものですが、もうかなり忘れてしまっている脆弱な記憶力に、我ながらがっかりします。ともあれ、実家でカルタといえば百人一

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父の小父さん 作家・尾崎一雄と父のこと8

父の小父さん 作家・尾崎一雄と父のこと8

実家には週一ペースで通っています。一人暮らしの父に少し楽をしてもらおうと、週末の夕飯は妹と私が用意していますが、たわいないおしゃべりをする時間でもあります。基本土曜日は妹、日曜日は私です。ある夜、デザートのリンゴを切っていたら、「チンパンジーの餌みたいだな」と言われ、ちょっとムッとしました。私のリンゴの切り方は、くるくる皮をむくのではなくて、サクサクと六等分してから、ひとかけずつするっと皮をむきま

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父の小父さん 作家・尾崎一雄と父のこと7

父の小父さん 作家・尾崎一雄と父のこと7

尾崎一雄さんの夫人、松枝さんと姉妹のように仲良しだった祖母の久子さんについて、今回はファミリーヒストリー的に探ってみようと思います。

父が小学生の時、「両親の家系を調べる」という課題があったそうです。個人情報保護が厳しい今だったら炎上必至ですが、戦前とはそういう時代だったのでしょう。それで、父は久子さんと林平さんに色々質問します。久子さんは自分の家系のことはあれこれ話すけれど、父親の林平さんにつ

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父の小父さん 作家・尾崎一雄と父のこと6

父の小父さん 作家・尾崎一雄と父のこと6

日常のふとした出来事が記憶を呼び覚まします。少し気取っていうならば、プルーストの『失われた時を求めて』の紅茶に浸したマドレーヌ、のようなものでしょうか(文庫本の第一巻で挫折しましたが)。父の昔話も、ちょっとしたきっかけから始まります。おなじみの話もありますし、えっ、そんなの初めて聞く、という内容もあります。

何年か前、テレビで〝欽ちゃん&香取慎吾の全日本仮装大賞〟を父と一緒に観ていたときのこと。

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父の小父さん 作家・尾崎一雄と父のこと5

父の小父さん 作家・尾崎一雄と父のこと5

二〇一六年三月に母が亡くなってからしばらく、父の精神も体も、目を覆いたくなるほどの衰弱を見せ、このまま母を追いかけるようにして逝ったらどうしようかと途方に暮れました。

何か元気づけることはできないか、と思案し、私にできそうなことといえば、こうした物語を書くことくらいでした。でも、すぐには手をつけることができなくて、そんな時にふと思い浮かんだのが、写真家である田沼武能さんの『時代を刻んだ貌』という

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父の小父さん 作家・尾崎一雄と父のこと4

父の小父さん 作家・尾崎一雄と父のこと4

少しだけ私の話を。平成十八年(二〇〇六年)に『きものの花咲くころ』という本を上梓しました(一昨年に『きもの宝典』として再版)。十年在籍した主婦の友社の、看板雑誌『主婦の友』から、きもの関連の記事を選り抜いて再編集し、解説をつけたもので、大正六年(一九一六年)に創刊された『主婦の友』九十年分に目を通してみると、表紙や口絵、テーマ、執筆陣、記者の語り口などから、リアルに時代の匂いを感じることができ、濃

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父の小父さん  作家・尾崎一雄と父のこと3

父の小父さん 作家・尾崎一雄と父のこと3

父は、尾崎さんが亡くなったのちも、未亡人となった松枝さんと晩年までお付き合いがありました。老いた松枝さんは、生まれ故郷の金沢に「まアちゃん、一緒に行こうね」と誘ってくれたこともあったそうです。きっと、子どもの頃からの親しみゆえ、気安く誘うことができたのでしょう。

松枝さんは気さくで開けっぴろげな人柄で、私も大好きでした。尾崎さんは痩せぎすの体に着流し姿、子どもにとっては近寄りがたさがありました。

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父の小父さん

作家・尾崎一雄と父のこと2

父の小父さん 作家・尾崎一雄と父のこと2

上野の山は、今も昔も大好きな場所です。家族でよく出かけました。子どもにとっては動物園が何より楽しみだし、世の中の不思議が詰まった国立科学博物館も大好きでした。リズミカルに曲線を描く噴水、トンネルのような桜並木、三色団子の新鶯亭。最近では、上野といえば東京国立博物館が主な訪問先なのですが、いつも直帰しがたくて、ぶらぶら散歩してしまいます。今はなき、京成線の博物館動物園駅、あの薄暗い地下から地上に上が

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父の小父さん 作家・尾崎一雄と父のこと1

父の小父さん 作家・尾崎一雄と父のこと1

タイトルにした「父の小父さん」から、ある人は、映画化された北杜夫原作の「ぼくのおじさん」を、ある人は、ジャック・タチの「ぼくの伯父さん」を、またある人は、歴史学者である網野善彦さんについて中沢新一さんが綴った「ぼくの叔父さん 網野善彦」を想起するかもしれません。

「父の小父さん」には、血の繋がっていない小父さんが、父を掛け値なしの大きな愛情で支え、実の親以上に見守り続けてくれた、その奇跡のような

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