見出し画像

父の小父さん 作家・尾崎一雄と父のこと7

尾崎一雄さんの夫人、松枝さんと姉妹のように仲良しだった祖母の久子さんについて、今回はファミリーヒストリー的に探ってみようと思います。

父が小学生の時、「両親の家系を調べる」という課題があったそうです。個人情報保護が厳しい今だったら炎上必至ですが、戦前とはそういう時代だったのでしょう。それで、父は久子さんと林平さんに色々質問します。久子さんは自分の家系のことはあれこれ話すけれど、父親の林平さんについては話が及ばず、じゃあお父さんは、と尋ねると、林平さんの言葉を待つことなく、「お父さん? お父さんはね、呑百姓」と答えたそうです。どきっとする言葉ですが、当時のことゆえ、お許しください。林平さんは、寂しそうな顔をしたそうです。それにしても、こともなげにそんな言葉を発する久子さんは、どんな出自だったのでしょうか。

実家にはささやかな写真コーナーがあり、そこには、私たち娘の写真と一緒に、祖母の久子さんの写真が飾られています。父の手元に家族の写真が残っていたわけではありません。なにしろ、東京大空襲で家は全焼してしまっているのです。疎開時に持っていた数葉の他は、のちになって、尾崎さんや親類が厚意で譲ってくださったものです。気づいたら、久子さんの写真が額に納められ、写真コーナーに置かれていました。

面長の若い女性はちょっと裄の短い着物姿で、戦前の雰囲気を醸し出しています。この人と血が繋がっているのかなあと、いつもぼんやり眺めてしまいます。会ったことのない、今の私よりもずうっと若くして亡くなった祖母。明治四十年(一九〇七)二月十二日生まれ、と戸籍にある生年月日から考えると、三十八歳で亡くなっているのです。

今、本家に残されていた戸籍謄本やお寺の過去帳、履歴書など、久子さんとその両親、つまり私の曽祖父母に関する資料をつぶさに眺めています。父の従兄弟が、二〇〇二年に送ってくれたものです。この資料が届いた当時、曽祖父の履歴書に記された〝現住所〟が、引っ越したばかりの我が家の目と鼻の先で、ちょっと驚いた記憶がありますが、それ以上深く探ることなく十六年の歳月が過ぎました。今改めて目を通すと、歴史資料としても面白い祖母の家系なので、ちょっとまとめてみましょう。

久子さんは代々伊豆の宇久須村で村長を務めてきた浅賀家に生まれ、父は浅賀長五郎、母はうた(旧姓は小谷おだに)。四男五女の末っ子です。長五郎さんは安政四年(一八五七)生まれ、うたさんは明治四年(一八七一)生まれ。明治二十四年(一八九一)、長五郎さん三十三歳のもとに、二十歳のうたさんは、後添えとして嫁ぎ、七人の子どもをもうけました。末っ子の久子さんの出産は、三十六歳の時。兄弟姉妹には前妻の娘や養女もいるし、養子に出された兄もいて、家族のありようが今とはかなり異なることに驚きます。

父の従兄弟によれば、浅賀長五郎さんは波乱万丈の生涯だったようです。履歴書の文面でふと目に留まったのは、明治十四年から十六年、「東京本郷区原要義塾ニ於テ漢英數ノ三科ヲ修學ス」の部分。慶應義塾を始めとして、明治以降、身分に関係なく平等に学べる場としてたくさんの私塾ができましたが、この原要義塾には、正岡子規が明治十五年にドイツ語を学ぶために入学しているので、それなりに有名な私塾だったのでしょう。

その後、明治二十三年に郵便電信書記補、明治二十五年宇久須村村長、明治二十九年賀茂郡会議員と職を遍歴します。郵便電信書記補時代に曽祖母のうたさんと再婚、その翌年に村長になっています。遠い過去のことゆえ、詳しいことを知る人はほとんどいないのですが、資料を送ってくださった父の従兄弟によれば、「人徳のある慈善家として慕われはしたが、小豆相場の失敗で一家離散のような形になった」といいます。その後、一八九〇年(明治二十三年)に郵便電信書記補、一八九二年(明治二十五年)宇久須村村長、一八九六年(明治二十九年)賀茂郡会議員と職を遍歴します。郵便電信書記補時代に曽祖母のうたさんと再婚、その翌年に村長になっています。遠い過去のことゆえ、詳しいことを知る人はほとんどいないのですが、資料を送ってくださった父の従兄弟によれば、「人徳のある慈善家として慕われはしたが、小豆相場の失敗で一家離散のような形になった」といいます。こののち、本郷春木町で緑春館を営みますが、それもまた失敗して、弓町に転居。一九〇五(明治四十年)生まれの久子さんの出生地は東京市本郷區弓町なので、この時期に生まれたことがわかります。

このことについては、岩波書店の創業者である岩波茂雄の自伝に記されています。半年ばかり緑春館に下宿した岩波は、長五郎さん家族と親しく付き合い、弓町の家にもしばしば訪問。この縁で、久子さんの長兄である正美さんは岩波書店勤務した時期もあったようです。

長五郎さんは、一九二五年(大正十四年)に逝去しています。

一方、曽祖母のうたさん。三月三日生まれだからでしょう、戒名に桃の文字があります。私の母もまた、桃の節句に亡くなったので、戒名に桃の文字を入れました。ささやかな符合です。

うたさんは、ちょっと謎めいた存在です。一族の中では、宮家の末裔と思われてきました。私もそう聞かされていましたが、送られてきた資料の中にはうたさんの実家である小谷家の系譜もあり、それが正しければ、どうやら宮家説は贋説で、宮家に仕えていた家でした。

江戸時代、小谷家は小川坊城家(歌会始の講師で知られる)に仕えていたとあります。また、うたさんの祖父にあたる小谷一清さんは、「仁孝、孝明、明治三帝ニ仕ヘ御板元吟味役」。お毒味役、でしょうか。栄養学者の児玉定子氏の『宮廷の食事様式(幕末・明治)——「日本の食事様式」遺補(1)』によれば、天皇皇后の日常の食事を担う料理人が板元で、「板元吟味役三人、板元若干名、板元面掛、板元見習若干名、総称して板元と称す」そうです。板元の家柄は十五軒あり、事実上の世襲で、父子孫三人が出勤できるため、総計ではかなりの人数となり、三班に分かれて出勤する体制でした。また、板元集団は御所内では全く独立した一団だったとあります。

小谷一清さんとその息子の一寧さんは、文久元年(一八六一)皇女和宮の江戸下向に随行。明治に入ると宮内省式部職に。うたさんは、一寧さんの娘で、兄の一光さんもまた宮内省に出仕していました。うたさんが長五郎さんと結婚した時には、すでに一寧さんは亡くなっていたため、後見人は兄の一光さんでした。婚礼時の謄本にあるうたさんについての記載には、「京都市上京区河原町通荒神口上ル東櫻町士族小谷一光妹入籍ス」とあります。どんな人だったかの情報はそれ以上ありません。ただ、うたさんは士族、長五郎さんは平民だったので、どんな経緯で決まった婚礼だったのか、少々気になります。うたさんは、大正四年に四十三歳で亡くなっています。祖母の久子さんはまだ八歳でした。

末っ子なのに「おふくろは姉御肌でね」と父はいいます。久子さんは、戸板女子短期大学の前身である戸板裁縫学校出身。寮生活だったそうですが、友達を引き連れて出かけることが多く、十一歳上の姉であるのぶさんが、母親のように世話を焼き、久子さんの部屋を掃除してもいたそうです。松枝さんの入院中に、尾崎家の掃除や洗濯をするほど世話好きで、外出好きの林平さんを「歩きおたま」と呆れた久子さんですが、学生時代には、林平さんに負けず劣らずの「歩きおたま」だったのです。ただ、体はあまり丈夫でなく、軽いリウマチを患っていたそうです。

昭和五年(一九三〇)、久子さん二十三歳は、林平さん三十歳と結婚。馴れ初めはわかりませんが、林平さんが久子さんを気に入り、押して押して押しまくっての結婚だったとか。「僕もお母さんとはそんな感じだったから、二代続けてだね」と父は笑います。結婚当初は下谷住まいで、次男の父が生まれる昭和八年(一九三三)には、上野桜木町に移転しています。なぜ上野桜木町に引っ越したのか、理由はわかりません。ただ、今年に入って父と上野界隈を散歩し、谷中の墓地を通り抜ける時、「小谷家の墓地がここにあって、両親がお墓の手入れをしていたんだけど、空襲で死んで誰も面倒みなくなったから、無縁墓として撤去されてしまったよ」と聞き、だから上野桜木町を選んだのかな、と思ったものです。

父が久子さんに年中怒られていたことは以前にも書きましたが、父は「怒られると、窓辺で頬杖ついて、叱られて〜、なんて悲しげに歌ってみたりしてね」と、ちょっとやそっとではへこたれないお調子者。学校で問題を起こすことも少なくなかったようですが、濡れ衣を着せられやすいわんぱく坊主、時には父の無実を晴らすべく、久子さんは相手の家に怒鳴り込む勢いで、「おたくの子にも悪いところはあったのじゃないですか」と父をしっかり守ってくれる強き母でした。

松枝さんとお揃いの服を着ることが多かったのは、祖母が裁縫学校出身だったからでしょう。「うちに尾崎のおばさんが来て、二人で縫い物をしていることもあったよ。傷痍軍人のための白衣だったのを憶えてる」。

幼い頃、お寺の縁日や繁華街で金銭を乞うていた傷痍軍人の悲しい姿を目にすることがありましたが、戦時中、傷ついて戦地から戻ってくる人は多く、お国のため名誉の負傷をした人たちの衣類を、家庭の主婦たちが縫っていたのです。松枝さんと久子さんは、お揃いの服や傷痍軍人の白衣を一緒に縫うだけでなく、子ども達の服を融通しあってもいました。お古、お下がりが当たり前の時代ですし、年の近い子どもがいるご近所では積極的にやり取りしていたことでしょう。どんどんものが不足していく戦時中はなおさら、心強い連帯でした。

尾崎さんの作品『続あの日この日』にも、その関係が描かれています。山下家の人々は、いつも大柄と形容されていて、やれやれです。

戦争中の市井でよく見られたやうに、私方と山下家とは、女児の衣類(主として洋服、毛糸製品)を交換し合ってゐた。山下家の子供は、両親が揃って大柄なので、皆大きかつた。私方の一枝に小さくなった服は、山下家の雅子に、結構間に合った。雅子用の毛糸製品で小さくなつたものは、私方の圭子に廻つてきた。

さて、今日はここまで。次は、父が大好きだった上野動物園のことを書きたいと思います。それでは、松枝さんの名セリフでお別れです。

三十六計眠るにしかず── おやすみなさい!


※トップの写真は、父の両親、私の祖父母。子ども思いの両親だったことが伝わってくる。下に敷いたのは、久子さんの黒留袖で仕立てた袱紗。どういう経緯か、父の従姉妹に手渡っていたもので、後年、形見にと仕立ててくれた。


尾崎文学の魅力の再発見と、戦争のない世の中のために。読んででいただけると嬉しいですし、感想をいただけるとなお嬉しいです。