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父の小父さん 作家・尾崎一雄と父のこと5

二〇一六年三月に母が亡くなってからしばらく、父の精神も体も、目を覆いたくなるほどの衰弱を見せ、このまま母を追いかけるようにして逝ったらどうしようかと途方に暮れました。

何か元気づけることはできないか、と思案し、私にできそうなことといえば、こうした物語を書くことくらいでした。でも、すぐには手をつけることができなくて、そんな時にふと思い浮かんだのが、写真家である田沼武能さんの『時代を刻んだ貌』という写真集の中にあった尾崎さんの笑顔でした。文士の肖像や、ユニセフの子ども達の写真で知られる田沼さんのこの本には昭和を代表する文化人二百四十人の姿が掲載されていて、その中の一人として尾崎さんが選ばれていました。

出版社に入ったばかりの頃、田沼さんの奥様である、歯科医の田沼敦子さんと出会い、以来長くお付き合いさせていただいています。そんなご縁でお送りいただいた本なのですが、事情を説明し、無理を承知でオリジナルプリントをお願いしました。

実家には尾崎さんの写真がたくさんあります。どの写真も魅力的ですが、田沼さんが撮影した尾崎さんの笑顔は格別です。きっと尾崎さんは、父にもこの笑顔を見せていたに違いありません。指には吸いさしの紙巻きタバコ。大病してもやめなかったタバコは、尾崎さんのトレードマークです。

では今回も、父が書いた「思い出の記 故・尾崎一雄おじさんの一年祭」を引き続き引用しましょう。

私にとって、実の母はとても恐い人でしたが、お向かいのおばさんも、負けず劣らずでした。母が留守のとき、鬼の居ぬ間の洗濯とばかり、近所の友だちを家に上げ、大騒ぎしていると、お向かいからおばさんが「コラッ!」と怒鳴りながら駆け込んでくるので、なかなか息抜きもできません。また、表で遊んで、服を泥だらけにして帰ってくれば、母とおばさんの二人にしかられるのだから、たまったものではありませんでした。

一方、当時のおじさんは、始終にこにこしていていた記憶があります。腕白者の私の話を親身になって聞いてくれる(ように思えた)よき理解者として映っていました。

お向かいの二階がおじさんの書斎でした。私の家とで挟まれた細道で、子どもたちは遊ぶのですが、大騒ぎになると、一枝ちゃんが気を遣って、「お父さんがお仕事中だから、静かにして」と言うのにも聞かぬ振りの私たちに、やがて二階からおじさんの顔が覗きます。

「まアちゃん、まアちゃん、おじさんは今仕事中なのだ。だから、少し静かにしてくれないか」と、子ども扱いでない口調で言われると、一も二もなく、言うことを聞いてしまうのでした。

おじさんは、当時から私を一人前の人間として扱ってくれていました。私の父はおじさんより一つ歳下でしたが、酒もタバコも嗜まない堅い人でした。一方おじさんは、お酒もよく飲むし、タバコも手から離さない。子どもながら、そんな姿に人間的な温かさを感じていました。

上野桜木町の路地の様子については、尾崎さんの作品『ぼうふら横丁』にかなり詳しく描かれています。父の書いたことを、大人側から見ているその文章を紹介します。

(前略)この横丁には、藍染橋──坂本の大通に近い側に、私方を入れて五軒、反對の公園寄りに、六軒の小さな家が、行儀よく並んでいた。この横丁には、子供と、犬が氾濫してゐた。一歩大通りへ出れば、バス、トラック、圓タク、オートバイ、自轉車のたぐひがひつきりなしに通るので、甚だ危険だ。親たちもやかましく云ふし、子供連中も心得てゐる。逆に公園の方へ行けば、廣大な遊び場があつて、彼らは、二本杉原だの、赤土山だのを中心に、はね廻り場にはことを缼かないが、なんと云つても家の前の、通るものと云つては邊りの住人以外は餘り無いこの横丁が、子供たちにとつて一番心置きない遊び場であるに違ひない。

こぢんまりとした路地に、十一軒の家が並び、それそれに二人から三人の子どもがいるとなれば、それはもう大騒ぎだったでしょう。どの家も似たりよったりの木造日本家屋。尾崎家サイドは二階建てが並び、家の間取りは、一階が六畳、四畳半、二畳で、二階に六畳一間。父の家サイドは平屋で、二畳、三畳、六畳、八畳だったといいます。

尾崎さんは「二階の六畳を占領して仕事場とし、芥川賞になつてから現金にも急にふえた仕事と取り組み始めた」わけですから、外で遊ぶ子どもたちの騒々しさにはいささか閉口していたようです。笑い声ばかりでなく、泣きわめきの喧嘩もしょっちゅうで、きっとその中心に父がいたのです。父曰く「僕は濡れ衣を着せられやすかった」らしく、自分の正当性を尾崎さんならきっとわかってくれる、とムキになって訴えたこともあったにちがいありません。

子ども同士だけでなく、大人を巻き込んで大喧嘩になることもありました。横丁物のうち、『なめくぢ横丁』や『もぐら横丁』の登場人物は、主に文士たちですが、『ぼうふら横丁』は横丁に住む人々も多く登場します。なかなかのキャラクター揃いだったようですし、尾崎さん一家にとって思い出深い場所でもあったのでしょう。『ぼうふら横丁』は、原稿用紙にして二百六十二枚、短編中心の尾崎さんにしては、五部構成の長尺ものです。なぜ、ぼうふらかといえば、尾崎家と背中合わせの家の小さな池などに夏が来るたびぼうふらがわいて、ぼうふら退治を時々やった、そんなことからの命名でした。

当時の尾崎さんは、芥川賞受賞という栄誉を受けたにも関わらず、苦悩の日々でした。実弟二人を相次いで病で失くし、さらに生まれたばかりの次男も病気で亡くします。悲嘆に押しつぶされそうな状況の中で、しかも「病氣、出産、入院とつづく失費の出所として、氣に入らぬ種類の書き物をしなければならなかつた」のです。

『暢氣眼鏡』は尾崎さん一流のユーモアを感じさせる作品です。そして、軽妙な味わいの後に、じわっと苦味の残るところが、名作たる所以。けれど世間的には、明朗小説、ユーモア小説と受け取られ、その手の作品のオファーが増えた時期でした。

私は苦い顔つきで、人の面白がりさうな文章を綴つた。肚はいかに苦しくても澁くても、文章にそれを現はしてはいけないのだつた。食卓をととのへ、上の子供を學校へ出し、下の子供の相手をし、病院に行つては妻と交代して少しでも妻に睡眠時間を與へ、夜は煙草で舌をザラザラにして面白い文章を綴る。「この俺の、この態が、どんなユーモア小説よりも面白いと云ふものだ」(中略)人前で「なアに、何でもない。痛くない」と虚勢を張る癖はしかし根深いと見え、そんな中でもよく人に逢ひ、酒も飲み、碁の會などと云へば必らず出かけた。フラフラになつた頭で、もう一番と挑戦したりした。

子供の父が感じていた尾崎さんの人間的な温かさとは、苦渋に満ちた感情の揺れを酒やタバコで紛らわせて、表面的には何食わぬ顔をしている大人の男、の姿だったかもしれません。

世の中は次第にきな臭くなっていました。尾崎さんが芥川賞を受賞する直前、昭和十二年七月七日には盧溝橋事件が起き、日中戦争勃発。昭和十四年には、ノモンハン事件。日本は太平洋戦争に突き進んでいくのです。反政府的な言論への制裁が厳しさを増し、時の政局を動物の脱走譚として発表した短篇に嫌疑が向けられ、尾崎さんのところにも特高刑事(特別高等警察)がやってきます。うまくかわしながらも「唯々風波が立たないやうに、と願つてゐるだけの男の書くものさへ、多少にしろ疑惑の目で見られるといふのは、これはただ事ならぬ時世だと思はぬわけにはいかなかつたのである」と回顧しています。

のちに尾崎さんは、その削ぎ落とされた文章について、「戦前の検閲により鍛えられた」と、昭和四十四年の三島由紀夫との対談で語っています(『尾崎一雄対話集』より)。尾崎さんの短編小説の技巧について三島は高く評価するのですが、それに対して、「私らの時代はもう短篇ばかり。それともう一つは検閲がうるさかったでしょう。だから読者に意のあるところを察せよという、そういう書き方を練習した」と答えています。そして、三島が、「いまの一部の小説に出てくるベッド・シーンを読んでも、こっちは少しも興奮しないな」と文章力の低下を嘆くのに対して、「私が仮に書けば、三島さんは興奮しますよ(笑)」と作家の矜持を覗かせます。

さてさて、今日はこれまで。次は、父の両親について、特に酒もタバコも嗜まなかった堅物な父親について書こうと思います。会ったことのない、けれど懐かしい、私の祖父母です。

それでは、松枝さんの名セリフでお別れです。

三十六計、眠るに如かず ───おやすみなさい!


※トップの写真は、写真家の田沼武能さん撮影の尾崎一雄さんのポートレート。額装して洋間に飾っている。


尾崎文学の魅力の再発見と、戦争のない世の中のために。読んででいただけると嬉しいですし、感想をいただけるとなお嬉しいです。