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父の小父さん 作家・尾崎一雄と父のこと6

日常のふとした出来事が記憶を呼び覚まします。少し気取っていうならば、プルーストの『失われた時を求めて』の紅茶に浸したマドレーヌ、のようなものでしょうか(文庫本の第一巻で挫折しましたが)。父の昔話も、ちょっとしたきっかけから始まります。おなじみの話もありますし、えっ、そんなの初めて聞く、という内容もあります。

何年か前、テレビで〝欽ちゃん&香取慎吾の全日本仮装大賞〟を父と一緒に観ていたときのこと。影絵パフォーマンスが登場すると、父はじっとそのチームの演技を見つめていて、ふーむと感心した後に「うちのおやじも影絵名人だったんだよ」と、つぶやいたのです。なあに? 影絵名人?

「上野公園を通って家に戻るとき、今の国立博物館の前あたりで、おやじが街灯の光を使って、うさぎとか船頭さんとかの形を手と腕でつくって影絵にするんだけど、それがまた上手でね。いつのまにか人だかりができるんだよ」父が小学生になったばかりのころの記憶です。「時々、夜道で真似してみるけれど、オヤジみたいにはできないんだよね」と笑います。

当時の上野公園には、街頭写真屋がいたそうです。親子連れなど見かけると、ぱしゃぱしゃ写真をとって、住所を聞き出し、写真ができ上がると連絡のハガキが届いて、欲しければ買うというシステムでした。影絵遊びをしている父と子は格好の被写体だったのでしょう。「おやじの腕に飛びついて、ぶら下がって甘えている写真があったねえ」

その写真も、東京大空襲の猛火が焼き尽くしてしまいました。

街頭写真屋の話は、澁澤龍彦の『私の戦後追想』というエッセイにもありました。父より五つ上の澁澤も、北区の滝野川で子供時代を過ごした東京っ子。有楽町の日劇前から数寄屋橋にかけて、通行人を待ち構えている街頭写真屋の数はおびただしいものがあり、両親と一緒に数寄屋橋を渡っていると必ず撮影されたことを思い出しているのですが、太平洋戦争が始まってからは禁止されたのではないか、と書いています。

父の父、つまり私の祖父である山下林平さんは、酒もタバコもやらない堅い人で、土木技師でした。私が子どもの頃、父と銀座線に乗る機会があると必ず、「おやじがこの地下鉄のトンネルを掘ったんだよ」と聞かされました。幼稚な頭では、シャベルやツルハシでトンネルを掘るイメージしか浮かばず、大変な仕事をしてたんだなあ、と勝手に思い込んでいました。私は、駅が近づくと一瞬室内灯が消えるかつての銀座線が好きでした。今も往時の面影を残す稲荷町の駅から地上に上がる時、すでに地下から地上の光が見えて、「昔の地下鉄はこんなに浅いところを掘ってたんだなあ」と林平さんの仕事に思いが及びます。

祖父について、尾崎さんは作品の中で人物紹介をしています。作品『山下一家』によれば、「山下林平氏はいかにも土木技師らしいがつしりした身體つき、背丈は五尺六寸に體重はまづ十七貫といふところか、年齢は私と似たり寄つたりながら私などよりずつと大人つぽい人物である」と、祖父も祖母に負けぬ立派な体格だったことがわかります。足も大きく、足袋のサイズは十一文半。祖母の久子さんは尾崎さんに「あたし、山下へ嫁た當座、毎朝玄關で出勤する主人の靴を揃へるたびに悲しくなりましたわ」と語り、いっそ離縁しようかと思ったこともある、と冗談まじりに愚痴っていたようです。

囲碁は好きだけれど、腕は尾崎さんよりも「五六子も手合が違う」へぼ碁でした。「非常に律氣な几帳面な人ですよ。會社から歸つてくると子供の相手をして、晩酌なしの夕食を喰つて、あとは謡ひをうなるか碁會所へ碁を打ちにゆくか」と人柄や暮らしぶりにも触れています。なぜこんなことまで描写されているかといえば、訳あってクビにした部下が祖父を逆恨みして、あちこちで中傷した挙句、警察にまで持ち込んだため、刑事が尾崎さんのところへ聞き込みにきたのです。尾崎さんは、この珍事を作品に登場させて、その中で、祖父の人柄を刑事に語るのでした。

祖父の林平さんは、伊豆の農家の次男坊で、財産はいらないから学問をさせてほしいと、日本大学工学部機械科に進学します。学生時代は、同郷の柔道家である富田常次郎(嘉納治五郎の書生で、嘉納治五郎が創設した講道館の最初の門弟。息子は「姿三四郎」で流行作家となる富田常雄)の書生として住み込みます。林平さんもまた柔道を得意とする人でした。

卒業後、東京地下鉄道に入社し、土木技師として、昭和二年開通の銀座線の浅草ー上野間の工事現場に就きます。

「現場には荒っぽい人が多くて、どうしても聞かない人がいるとやりあうこともあり、やむを得ず柔道の技で投げ飛ばしたこともあったらしいよ」とは父の記憶です。そんなことが続いたからか、けがをして退社。

その後、鹿島組(現在の鹿島建設)に再就職します。これはちょっとした縁故入社でした。鹿島組の令嬢でのちに五代目社長となる鹿島卯女さんと祖母の従姉妹が女学校の同級生で、共に配偶者が外交官という共通項もあって、仲良しだったようです。その卯女さんから土木技師を探していると相談があり、身内に適材がいる、と推してくれたのです。

林平さんは、その出自も生き方も尾崎さんとは対照的ですし、仕事の質もまったく違います。本来ならば、出会うことのない職種の人たちが、たまたまお向かいになって、年齢や家族構成が似ていたことで、親しく付き合うようになったのは、巡り合わせとしか言いようがありません。

父の母である久子さんは教育ママでもあったらしく、父の兄、佳伸さんには大きな期待を寄せていました。一方の次男である父に対しては放任にも近く、父はそれが不満で、テストの結果が良いと「玄関脇の二畳の部屋に張り出してたなあ」と熱烈アピールしたものの、戦前の次男はいと悲し、です。が、街歩き好きな林平さんはこれ幸いと、よく父を連れて出かけたそうです。行き先は、浅草六区のあたりが多く、活動(映画)を観たり、今はなきひょうたん池のまわりの見世物小屋をのぞいたり、屋台を冷やかしたり。時折実家でソース焼きそばをつくると、父は「ひょうたん池の味だな」と喜びます。そして、ついつい帰りが遅くなれば、久子さんに「この歩きおたまが。どこに行ってたんですか」と呆れ顔で出迎えられたとか。この、歩きおたま、という表現は、我が家ではよく使うのですが、出どころ不明で、おそらく、西伊豆方面の言葉なのだと思います。ほっつき歩いて帰ってこない人のことを罵るのに使われたようです。私は、おたまは猫だと思っていたので、ちょっと可愛げな意味合いで捉えていましたが、お玉さんという女性だと、父は言います。

私が知らない父の家族のことを、私は尾崎さんの作品と父の話とで、ずいぶん詳しくイメージすることができます。直接的な話ではなくても、たとえば『ぼうふら横丁』に登場する当時の上野公園は、尾崎さんらしい目線が息づいています。混雑する東京名所に辟易する尾崎さんは人出のない時間の散歩を好み、上野公園の夜や早朝を印象的に描写しているのですが、ちょっと長いので、ここでは花見時の人だかりに閉口する尾崎さん夫婦の話を。漫談めいた尾崎さんと松枝さんの会話から、お二人のウイットと仲睦まじさが伝わってきます。

こと新らしく云ふのも可笑しいが、上野公園附近は東京の名所の一つだから、一年中人出が絶えない。それに、公園や不忍池畔では、時々何か催しがあつて、さういふ時の人出は大變なものだ。

季節的には春が一番賑やかなやうである。(中略)花時の、ある日曜の午後、私は二階の廊下に立つて、公園の方角に目を放つてゐた。そこへ、家内が箒とハタキを抱へて上つてきた。掃除をするつもりらしい。

「おい、公園のあたり、もうもうと立ち昇つてるのは、いつたい何だと思ふ?」「さア何でせう。煙か雲か──」「あの向こうに上野驛が控へているから、煙も多少はあるだろう。しかしあれは、土ほこりだよ。出盛る人並みで、あんなに土ほこりが舞ひ上がるんだ。嫌になるねえ」「ああさうか。道理で判つた、この二階、いくらお掃除してもほこりつぽいの、そのためなのね」家内は忽ちそれを、掃除の行届かぬ云ひわけに利用している。「あれだから俺は公園が嫌ひなんだ。折角花が咲いたつて、紅葉したつて、みんなセメントの粉をかぶつたみたいになつてゐる。櫻狩り、紅葉狩りぢやあなくて、あれではほこり狩りだよ。だから俺は──」と云ひかけると、「公園厭の如し、ですか」と家内が先廻りした。光陰矢の如し、をもぢつて、私が公園の悪口を云ふ時よく使ふものだから、家内の耳にたこが出来てゐたといふわけだらう。

きっと父は、ほこりや泥にまみれて遊びまわり、家に土ぼこりを持ち込んでいた口ですから、花見時のそんなほこりなど気にもならなかったでしょう。

それでは今回はこのへんで。まだしばらく上野桜木町時代のことを書くことになりそうです。それでは、松枝さんの名セリフでお別れです。

三十六計、眠るに如かず ───おやすみなさい!

※トップの写真は、東京藝術大学から上野公園へと抜ける緩やかな坂道。この道は、上野公園と上野桜木町を結ぶ道で、父の遊び場でもあった。


尾崎文学の魅力の再発見と、戦争のない世の中のために。読んででいただけると嬉しいですし、感想をいただけるとなお嬉しいです。