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2021/3/26 「初めて見る景色」

2021年3月25日、木曜日、昨日のこと。約1年越しに念願叶って、初めて、ロケ地というものに行って参りました。それも自分たちの運転で。久しぶりに感じるあたたかさでした。

この目の先には、どんなものが見えているんだろう。どんなものが映っていて、何を感じているんだろう。テレビや雑誌、配信アプリやDVD。様々な媒体を通してずっと見てきた中で、いつも思っていたこと。ずっと悩んで、ずっと涙してきたことでした。いくら考えてもわからなくて、重なることができなくて、いつまでたっても見られなかった景色でした。

それが遂に叶った日。特別でした。

その景色は、よく赤の人が話す、ペンライトの海でもなくて。緑の人が話す、登場の瞬間の、満員御礼の、泣きそうになる景色でもなくて。嘘でも絶景とか、きれいだねとか、美しいねなんて言葉は言えないし、そんな言葉は似合わない、ほど遠い、そんな景色でした。

どんよりとしていて、風も強く吹いていて、人間が捨てたゴミも落ちていて。その先にどこまで続いているのかも分からない、どこに続いているのかすら分からない、海がある。ある人やある場所にとっては最果て。とも言えるような場所でした。

なんもない灰色の、光のないくすんだ景色だったけど、ずっと前に一人で見て怖いと感じた海の時とは、また、ほど遠かった。

一緒に見てくれる人達がいた、大好きな人達の見た景色だった、時間の関係。いくつか理由はありそうだけど、5人の残像が見えたからというのが、一番大きいかもなと思います。そう思いたいだけというのが、本当のところかもしれないです。


そして今日。1日たって、今度は昨日の場所で撮られた映像を見返しました。

昨日はあんなに「絶対ここだ」「ピンポイントで来られるなんて凄すぎる」と話していたのに、記憶っていうのはやっぱり不確かなもので。確かに同じ場所で、同じような景色ではあったけど。5人が上がっていったと思っていた階段は、そもそも階段じゃなかったし。5人が立っていたと思えた砂の山は、たぶん別の砂山でした。

だからやっぱり、残像なんていうのはなかったのかなぁなんて。だからさっき、そう思いたいだけかも。と書きました。寂しいけど。

ただここまでくると、ここまで好きになると、「すべて」とか「絶対」にこだわらなくなる。すべてじゃなくても絶対じゃなくても、その「一部分」に「同じような」とか「確か」があれば許せるようになるんです。

すべてを知りたい。毎日会いたい。一番になりたい。絶対あれになりたい、あれをやりたい。こういうのが、だんだんなくなっていって、この面だけ知れていたら。出会えただけで。二番でもいいから。何かしらの形で関わっていられたら。こんなふうに変わっていく気がするんです。

好きな人にも、自分にも言えることだと思います。

「すべて」とか「絶対」に対する、諦めとか、エネルギーの足りなさも感じるけれど、でも欲張っていた時から、こんなちょっとのことで満足できたり、それで幸せになれたり、安心できたりするようになっているのは、すごく優しくて、かわいいなぁとも思います。

ただそれでも。

5人でいられたらそれでいい。他の4人がよければそれでいい。そう思っていたとしても、それと一緒に。

まだまだいじりたかったとか、まだまだつっこみたかったとか。いつかまた誰かのためにとか、いつかまた夢の続きをとか。そんなふうにまだ欲張れていたら、それはきっとほんとうだろうなぁって思うんです。

穏やかに願えていたら、それは本物だよって思いたいです。


映像を久しぶりに見返して気付いたのは、景色なんてものはほとんど映されていなかった、ということです。映っていたとしてもメインは5人で。そりゃそうだってあまりにも当たり前のこと過ぎて力が抜けました。被写体の表情とか姿を撮ることが目的で、それを見ることが買い手の需要なんだから。

でもその視点が昨日のように移った時、自分の目を通してだったけど重なって同じような景色が見られた時、それはやっぱりとんでもなく感動しました。



またね👋










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