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2021/4/30 「立てる人立てない人」

私はエンターテイメントの世界が好きです。現実世界を離れることができるから。エンターテイメントの世界に立てる人達が羨ましい。あそこは誰もが立てる場所ではなくて、立つべき人のみが立てる場所。それくらい、神聖な場所?っていう表現が合っているのか分かりませんが。それくらい、私にとって、あの世界は特別な場所。

そういうところって、「自分は立たずに見ていたい。」って思う人もいると思うけど、私は立ちたかった。自分じゃなければの話です。みんなもそういう意味で、言っているのかな、どうだろう。

でも、やっぱり、過去に立っていた人たち、今立てている人たちやこの先で立つことを選んだ人たち、は、絶対に、立つべくして立った人たちで、エンターテイメントの世界に身を置かなくてはならなかった人たちだと、私は思う。本人の意思関係なく、ね。

いいなぁって、思う。

「頑張ればいいじゃん」って思う?頑張ったって無理な人間なんだと思う、私は。他の身体だったら分からないけど、「私」には無理なことだと思うの。

日々の暮らしは、私たちを、待っていないんだって。

時間が解決してくれるっていうけれど、時間が解決してくれる前に探してた。ここも違う、これも違う、って探してた。不安になって違う場所を探していたの。時間なんて待っていられなかった。

と思っていたけれど、それでもやっぱり、捕獲されていたのかな。日々に。

同じ陰の人間でも、違う人がいた。その差異を感じたの。マイナスの陰と陽って表現してくれた。でも、私が感じたのは、同じ陰の人間なんだけど、ほんとうでいられる場所が違うのかもしれないっていうことだった。

光の届く場所でのみ、「ほんとう」でいられる人間と、光の届かない場所でのみ、「ほんとう」でいられる人間。

光の届く場所でのみ、「輝ける」人間と、光の届かない場所でのみ、「輝ける」人間。そんな感じがしたんだ。

どっちがどっちだか、まだはっきりしないような気もしている。

だって、「理想」が邪魔をしてくる。特に私の場合はそう。「理想像」っていうものがすごく厄介。ほんとうがわからなくなる。

だから、私が頑張っても無理だっていうのは、つまり、そういうことだと思う。「理想像」がエンターテイメントの世界に立っていることに対して憧れている。だから、努力しても、私がエンターテイメントの世界に立てることは私の人生において多分ない。

じゃあ、私の理想像だから、表舞台に立てる人たちが好きなの?ってことになると思うけど。それは間違いではないと思う。だけど、ほんとうのすべてでもないと思う。その人が、表舞台に立てなくなったら嫌いになるの?って、そうじゃないと思うから。もっと深くに、ほんとうがある。

理想像に、私がたどり着けることはない。だってだから、理想っていうんでしょう?最高の状態なんだって、理想って。十分に生きられないから、やっぱり、たどり着けることはないっていうのは正解だと思う。

だって、私見えるもん。

無理そうなことでも頑張れていることは、「見えた」から頑張れているの。
見えることは頑張れる。何とかなるって思うから。「見える」ってすごく大事な感覚だなぁって思います。

今まで一回も見えたことがない。エンターテイメントの世界に自分が立っている姿。今後も絶対に見えないと思う。

でも、エンターテイメントの世界に立っている人たちと、一緒にいるところは見えて、一緒に仕事をする姿は見ることができるの。

だから、頑張れているし、これからも頑張るの。


またね👋




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