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「運命」と「宿命」 ー文化資本と親ガチャー

ブルデューのディスタンクシオン。

これを読んだとき、ふと「親ガチャ」についての記事を先日目にしたことを思い出した。

ブルデューは、文化と階層との関係を駆動させるものとして、文化資本(cultural capital)に着目した。文化資本とは、家庭環境や学校教育などを通じて各個人に蓄積され、さまざまな社会的行動の場面において有利ー不利を生み出す有形・無形の領有物である。ブルデューは、文化資本を具体的な3つの資本、「客体化された文化資本」(書物・絵画・道具など)、「制度化された文化資本」(学歴・資格など)、「身体化された文化資本」(教養・趣味・感性・ふるまいなど)に分類している。上層階層や中流階層がその幼少期から有形・無形で獲得している文化が、学校教育の取得や職業での就業や成功達成に有利な文化資本として機能していく。

引用:新版 社会学(有斐閣)

ブルデュー理論に基づくと、経済力に豊かな家庭に生まれた場合、お金があるので幼少期から塾に通い、たくさんの習い事をして教養を身につけ、高校や大学で留学を経験し、大卒や大学院卒の高学歴の肩書をもって大企業に就職する。

逆に経済的に豊かでない家庭に生まれた場合、お金がないので習い事ができず、もちろん塾にも行けないので受験勉強のテクニックを学ぶことができない。本や玩具も十分に与えてもらえないので、環境的にも教養がつきにくい、ということである。

学生たちの会話にしばらく耳を傾けていると、身長ガチャ、容姿ガチャ、顔面ガチャといった言葉も結構な頻度で聞こえてくる。いずれの言葉も、生まれもった身体特性を対象にしている点に共通性がある。

「親ガチャ」という言葉が、現代の若者に刺さりまくった「本質的な理由」(現代ビジネス) -Yahoo!ニュース

生まれ育った家庭環境や、生まれもった自分の容姿。たしかに私も決して満足ではないし、「お医者さんの子どもに生まれたかった。美人に生まれたかった。」とか思わないわけではない。隣の芝生の青さを、ついうらやんでしまうばかりである。

だけど、そんな願っても変えることのできない事実を言い訳にして、未来に希望を持てず、自分の可能性を信じられず、挑戦を諦めてしまう。それは絶対にもったいないと思う。

現代は格差社会であるとされる一方で、近年は「share」の概念が広がり、シェアリングサービスの需要が高まりを見せている。それをお店で「買う」までには至らない人でも、中古品やレンタルで「触れる」ことはできる世の中になってきており、このサービスの広がりは、「物質的な豊かさ」の格差を補填しているといえる。

シェアよりもっと前から始まっているのは、「情報の豊かさ」の拡大である。今はデバイスとネット環境さえあれば、誰でも無料で幅広い情報が得られる。自分と違う考えや意見を持つ人の価値観に触れ、自分が普段過ごす環境にはいない人たちとのつながりを持てるチャンスが、ネット上に広がっている。

しかし、情報の豊かさには懸念点もあって、“Z世代”と呼ばれる私たちデジタルネイティブ世代なら、情報は誰でも手に入れることができる分、どの情報を選択し、どんなアイデアをいかに効果的に活用するか、さらにスピード感をもってモノやサービスにしていけるか…といった、個人の能力が重要となる。そのため、この先ビジネスでの競争はさらに激化することが見込まれる。

自由と安心は相補的でありつつ、両立しない。
近代的個人主義は、人々の解放の動因であり、自律性を高め、権利の担い手を作り出すが、同時に不安の増大の要因でもあって、だれもが未来に責任を持ち、人生に意味を与えなければならなくなる。

コミュニティ (ちくま学芸文庫) ジグムント バウマン (著), Zygmunt Bauman (原著), 奥井 智之 (翻訳)2017, 筑摩書房

自由が前面に出てきた時代だからこそ、どんなに状況であっても安心できず、心が揺れ動き続ける時代。そんな時代には、自由である反面、たくさんの不安がつきまとう。

最後に、なにかの本からメモに書き留めていた言葉で締めくくると、

どんな体顔、どの国、環境、両親の元に生まれてきたのか?自分の力で変えられないことを「宿命」といいます。
その上で、どのようにも変えられるのが「運命」です。自分次第で、運命はいくらでも変えていけるということです。

自分に与えられた「宿命」、周りで支えてくれている人、今ある幸せに感謝すること。そのうえで、自分の意思で道を切り拓き、夢に向かって努力することで「運命」を変えていきたい。


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