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禁止をやぶることについて

 私は神話に興味があるのだけれど、そのことについて。
 ある人との会話から「どうして神話が好き(興味がある)なのか」ということが気になってきた。はて、私は神話のどういうところに惹かれているんだっけ。

 いつものことながらコレというこたえもなく、だらだらと書いていくことになるとおもうのだけれど、よければお付き合いください。

 国生みや天孫降臨の地として有名な宮崎に暮らしたのは20年ほど前になる。その頃はほとんどといっていいほど神話のことなど何も知らなかった。その時に出会った人々との会話にちょくちょく神話が出てきたり、ゆかりのある神社などに足を運ぶようになったころには、私は宮崎から地元に戻ってきていた。宮崎と日本の神話というのがまず私に記憶された。江田神社にあるみそぎ池のそばに立ち、その場所で、黄泉の国の穢れを祓うためにイザナギノミコトが禊をした話を、私は「ほんとうのこと」として聴いた。そういうふうにして、神話のリアリティ(みたいなもの)が積み重なっていった。

 それでもすぐに神話の世界にのめりこんだりはせず、まあその興味はふくらはぎくらいのところであったのが、10数年を経ていまはおへそのあたりまでずぶずぶと浸かってきたといったところだろうか(てきとう)。もともと記憶力と集中力に問題があるから、人に語れるほどの知識はほとんどなく、思いついたときに調べたり、深めたりしてひとりでおもしろがっている程度である。

 この頃はまた、河合隼雄さんの著書から神話や昔話を題材にしたものを再読していて、今朝も電車の中で読んでいたあたりでふっと心に浮かんだことを書く。

 禁止を破るというモチーフについてだった。

 鶴女房などに代表される、昔話に語られる「見るなの禁」についてのあれこれや、アダムとイヴが食べた禁断の木の実。それからイザナギがイザナミを訪ね黄泉の国へ行った際に、イザナミが『黄泉の神と交渉する間、自分を見てはならない』ことをイザナギに伝えるが、イザナギはこの禁止を破ってしまうというエピソード。禁止というのは破られるためにあるというか、とにかく昔話でも神話でも映画などでも繰り返し出てくる。

 禁止を破るって、なんだろうか。見るなというのに見たというのは、一見悪いことみたいに感じてしまうけれど、それを破ることによってもたらされたものに注目してみると、そこには善悪でははかれない何かを感じる。
 嘘をつくとか、約束を破るとか、そういうことは世間的にはよくないこととされているけれど、場合によることがすごく多くて一概に言えないのだ。

 私に『制限』を与えた人がいた。それはすごく窮屈で、息がくるしくて、私はそれを逃れるために持ち合わせの勇気を振り絞ってさよならをした。勇気を振り絞れる前には、ちょっとした嘘もついたし、ちょっとだけ破ったりもした。それは私の弱さである。後ろめたいなとおもうこともあったけれど、悪いことをしたとはおもっていない。そしてさよならした今となっては、制限を超えられたことは私にとってすごくヨカッタとおもっている。
 こうなってくると、制限を与えた存在は私にとって勇気を出して言いたいことを言えるようにするための存在だったということになり、それは未来の私の生きやすさ、成長につながったという点では結果的に「よいこと」ということになる。

 今朝は本を読みながら、禁止を破らなかったらどうなるんだろうとぼんやり考えた。鶴の女房はひたすら恩返しのために機を織り続け、見てはいけないといわれた夫はしっかり真面目にそれを守り通すという夫婦生活が続いていったら?
 もう機織りできる羽がないよ! と毒づいたり、いい加減覗いてくれないかなとか、あんなに真面目で退屈なんて思ってとうとう自分から障子に隙間をつくったりなんかしてね。

 神話や物語に惹かれるところはこういうところでもある。謂れの残る土地を訪ねることがたのしいし、そこに祀られている神さまについて知ることで、土地と神話のつながりを感じてわくわくしたり、あるモチーフと自分との関連についてあれこれ考えていくなどのどれもが好きなんだろう。神々を身近に感じられるあたりもいい。

 今日は日本の神話や昔話とからめて書いたけれど、とにかく宗教的なこと全般についてこのような関心が強い、ということみたいです。
 こんなふうに、誰かとの会話でまた自分を知るというのもたのしい。つくづく自分のことばかり考えている次第である。

 ↑読んでいるのはこの本。

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瀬織津姫神社

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