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現役高校生が語る教育論

学生による教師への暴力事件が相次いでいる。最近では、名城大学の学生が40歳の准教授を刺して逮捕された。今回の事件についても「本人が悪いのか」「家庭が悪いのか」「学校、社会が悪いのか」といった延々と終わらない無意味な責任転嫁が始まるのであろう。その時に、「偏差値教育」とかいうくだらない文脈でものを語ろうとする識者がいるかもしれない。でも、それだけはやめて欲しいところだ。

はっきりと断言できるが、こういう事件が起こるのは偏差値教育のせいでは決してない。というのも、学習塾や予備校の教師が学生に刺された、という話を私は寡聞にして知らないからである。

私は小学生時代は中学受験のために、そして今は大学受験のために予備校に通っているがそんなことが起こったのは見たことがない。塾は勉強だけを教える場所で、「偏差値」を唯一の価値基準とする特殊な空間だ。だから、偏差値教育のフラストレーションが頂点に達し、「英語の授業中に学生が予備校教師を刺殺」というような事件があっても不思議はなさそうだ。

でも、こんな事件は起こらない。なぜか。

それは、学習塾や予備校は勉強だけを教え、成績を最も重視し、人格を無視するからだ。極端なことを言えば、生徒が髪の毛を洗っていなくて不潔であろうが、タバコを吸っていようが、時にもよるが授業中寝ていようが誰も注意しないし、とがめないのだ。だからこそ、予備校や学習塾で解放感を味わう、ということが起こりうる。

学校が抑圧的なのは、個人の人格を無視しているからではなく、逆に「個人」「人格」「個性」が過剰に言及されているせいである。塾講師は「成績が良いからって、自分が偉い人間だと思いあがってはいけませんよ」なんて絶対に言わない。なぜなら、予備校教師は「成績」と「人格」の間にはなんの相関関係もないことをよく知っているからだ。彼らは自分たちの立場をよくわきまえており、成績を評価することしかしない。

成績と人間性の間に相関関係があるとかないとかいうハームフルな言説をまき散らすのは学校の教師たちの方である。彼らは成績の判定だけでなく、執拗に生徒の人格や個性についてコメントする。

例をあげよう。

小学校時代、母が個人面談から涙を流して帰ってきたことがあった。確かに私がたくさんの悪事を働いた、というのもあったのだろうが、どうも私の人格を否定されたのが原因だったようだ。

まだある。通っている高校に、叱ることを通じて生徒の人格陶冶を目指す困った教師がいる。彼が海外研修の生徒選考における担当教師だった時、私は自分の考えが未整理のまま志望届を出し、そして選考試験が終わったのちになってキャンセルした。その時、彼は、「俺がどれだけの時間試験にかけたか知ってんのか。期限を守れないのは人間として最低だ。お前なんかどうせその程度だろ。」と私を叱りつけた。私はもう結構な大人だったが、この言葉にはさすがに怒りが抑えきれず、「職員室から叩き出して殴ってやろうか」と思った(私の自己保身とリスクテイクの計算にはなかなかのものがあり、そんなことはしなかったが)。

恐らく、例に挙げたこの2人の愛すべき教師は、私にしてみればちょっと信じがたいが善意の人であり、私のためを思って言ってくれていたのだろう。だが、彼らは決定的な間違いを犯している。それは、学問を教わるために私が生徒という立場上採っている従順な態度を、人格的な上下関係と取り違えて自分には「私」を「人間的に更生させる」権利と責任があると思ってしまったことである。

この誤解は、多くの日本の教師が犯している。生徒が「立場上採っている従順な態度」を人格的恭順の意のしるしだとはき違える誤りと、そもそも学校教育に対して多くを期待していない姿勢を自分への反抗の意図だと解釈するという誤りである。

結論を急ごう。学校での暴力をなくす一番の方法は「人格教育的要素」を排除すればいい。そうなると、人格教育は家庭にゆだねられるのだが、それについてはまた気が向いたら書きたいと思う。



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