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社会不適合者だと堂々と言える理由がある
タイトルだけを見るととてもネガティブな内容かと思われるかもしれませんが、最後まで書き切れば案外そうでもない内容になると思っています。
まずは"社会不適合者"という言葉を、自分なりに思う解釈でその前提を先に書いておきたいと思います。
社会不適合者
一般的な捉え方がどういうものなのかも自分自身あやふやではあるのですが、あくまでも個人的なイメージとして、現代社会を他人と生きる上でそこに入れない人や馴染めない人などであるのかなと。
例えば、犯罪を犯すような人。
人様に多大な迷惑をかけながら生きている人。
モラルやマナーを著しく守れない人。
その他etc…
あまり何処ぞの誰かのことでさえも悪く書くのは抵抗があるのであとは読んで下さる皆様の頭にある「社会不適合者」と聞いて思い浮かぶような解釈にして頂いても結構です。
先述した上記をすごくざっくりと簡潔に言いまとめてしまうと、悪人というイメージになるのでしょうか。
ただその他にも、例えば何か止むに止まれぬ事情を抱えていてこの今の一般社会、現代社会に入ることが困難な人も居るのだと思います。
そして、他ならぬ僕自身もまた後者においた場合の社会不適合者のうちの1人だと自覚しています。
こういうことを言うとそれを聞いた人からはありがたいことに
「そんなことないよ」
「ひろきは社会不適合者なんかじゃないよ」
といった優しいお言葉をかけてくれます。
ただそれはきっと前者の悪人的なイメージでの社会不適合者ではないよ、と仰って下さっているのだと思っています。
僕は自分自身を卑下した言い方をすることがたまにあります。
勿論犯罪は犯していません。
ただ、人に迷惑をかけたことはあります。
モラルやマナーは守るように心がけています。
なので、僕が書いた悪人的な社会不適合者ではないだろうと自分でも思います。
では何故自分自身のことを社会不適合者だと堂々と言えるのか。
それは、自らの考え方をもってして、今の社会に適合することを前向きな意味で敢えて諦め、適合することを望まないからです。
僕はいくつかの精神疾患を抱えています。そして僕は1人の人間としての性質上、近頃認知が広まってきているしSNS等でも時々耳にするようになった「HSP」という気質の人間でもあります。
これをもう少し紐解いてみると、精神疾患などのせいで世の中の多くの人と同じように生きることが難しいから。
というよりも出来ないまでに程近いから。
社会が長いこと、それがさも正しくてそうであることがいわゆる"普通"だと。
そうである方が望ましいとしてきた"普通"という言葉。
ではそうでない、そうであれない人は普通ではないのでしょうか?
これは僕の場合はですが、きっと僕は恐らく普通ではないのでしょう。
だからとて、普通に組み込まれないから生きていてはいけないとまではならないはずです。
社会でこれらの人を見た時に「マイノリティ」という、少数派に区分するのだと思います。
というよりもそうであるのが現状なのです。
ただマイノリティ側にも、それ相応の事情があるんです。
自分からそうなろうと思って精神疾患を患ったり、身体や精神面での障がいを持っている訳ではありません。
ただ中には都合よく、患ってもいない疾患の名を自ら勝手に持ち出して悪用しようとする人もいるようですが。
そんな人にはきっと理解できないでしょう。
こういった類いの病気がどれほど辛く苦しく、絶望感を抱いてしまうようなものであるか。
話を軌道修正しますね。
きっとマイノリティ側の人たちの多くは、今を生きる「マジョリティ」、多数派である側の生き方を送れるものなら送ってみたいと思ったことがあるのではないかと勝手に思っています。
きっと僕も25年の間の途中までは周りの皆んなと同じような生き方をしてきたと思っています。
しかしその途中で避けようのないエラーが起きてしまったのです。
この病気は一朝一夕で解決できるようなものではありません。
勿論今はまだこの病気を持っていても、いずれは寛解を目指しています。
それならいっそ僕が社会に上手いこと適合できないのであれば、わざわざ無理やっこなかなか曲がらないこの自分の心と身体を曲げて、心と身体を殺して無理をしてまで生きていくよりもありのまま、在るがままの自分に合った生き方を探そうと。
それが今の一般社会、現代社会にそぐわないのであれば自分なりの生きやすい、生きていて居心地の悪くならない生き方を切り拓いていこうと。
僕はうつ病、強迫観念及び全般性不安障害、パニック障害、その他少々。
いくつかの厄介な物を抱えてきたし、今も抱えています。
でも生きています。なんとか生きてこれました。
そして、この先をこの身で生きていく生き方の実践をようやく始められたところです。
なによりも自分自身の心と身体の声に耳を傾けてあげようと。
自分自身が一番の僕の味方であってあげようと。
僕が僕を護ってやろうと。
楽がしたいということではないのです。
あくまでも、この先も生きていく上で社会では弱者なのであれば弱い者なりの生き方をしてやろうと思うのです。
ただ僕がこの道で踏み間違えてはいけない、自分が忘れてはならないことは"マイノリティ"も振りかざすことで誰かを苦しめることになる可能性もあるかもしれないということ。
その対象が例えばマジョリティの人間であったり。
はたまた、同じマイノリティの人間であったり。
弱いままでいたらいいと、全ての人に僕から言うことはしません。
あなたはあなたの道を進んで行っていいんです。
もしもその道中でその道が急に途絶えたり、足が前に進まなくなったら。
僕がこの身で切り拓いていくであろう、その時は拓かれているかもしれないそこにあるこの道は僕の人生の轍。
その轍は跡が辿りやすいようにしておきますね。
一足、一足を僕と全く同じように辿る必要はもちろんありません。
「こんな道もあったりするんだよ」程度かもしれません。
でも
「あぁ、こんなものでもいいのか」
となれば、それはそれで充分なのかなと思ったり。
社会に敢えて適合しない生き方を選択するのはあくまでもまずは僕自身のため。
でもそれがもし悩める誰かのためにもなれるのであればちょっと嬉しいかもしれないなぁ。
出来ることなら生きることに苦しむ人、辛い思いをしながら生きている人の手助けを少しでもしたい。
"ひろき"として歩んでいくこの道が正解なのかどうかは僕もまだ知りません。
最期の最期になってわかることかもしれないし、途中で少し道をくねくねとさせるかもしれない。
綺麗にスーッと真っ直ぐ伸びた一本道とは恐らくならないでしょうね。
僕は僕の味方であり、同時にあなたの味方でもありたいのです。
それは欲張りなのかもしれませんね。
悩んだって大丈夫。
苦しくても、辛くても。
出来るならあなたはあなたを愛してあげて下さい。
時には後ろに退がっても大丈夫。
一歩進むのに時間をかけてもきっと大丈夫。
周り道だって面白いかもしれない。
大切なのはきっと、自分の踏み出したその一歩を大事に踏み締めること。
慌てなくていいから一歩一歩を着実に。
僕はこの先も多分少し変わった社会不適合者。
社会に適合することを敢えて拒む、そんな社会不適合者。
でも僕なりにこれらに相応しい情熱と覚悟と決心、そして真心を精一杯込めていきたいんです。
大袈裟に聞こえるでしょうか。
最後の最後に全ての大前提を。
これら全てはこの命を全うするため。
生きることを投げ出さないために。
ひろき
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