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細川興元メモ

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忠興の弟・細川興元についてのメモまとめ。
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戦国日本と大航海時代を読んだよ

戦国日本と大航海時代を読んだよ

5年前にXで上げていた『戦国日本と大航海時代』の感想ツイを再掲します~
面白い本なのでおすすめ。

南蛮貿易も加味した徳川幕府の国際的な立ち位置がわかるぞ!!

南蛮貿易も加味した徳川幕府の国際的な立ち位置がわかるのがね、本当に面白かった!!!

あと当時のキリシタン界隈のことも踏まえながら読むとむちゃくちゃに面白いです。

関ヶ原の戦い後辺りからの家康や、徳川幕府のキリシタンに対する姿勢がコロコ

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細川家考察つぶやきまとめ③

細川家考察つぶやきまとめ③

過去にX(twitter)でつぶやいていた、細川家関連の考察まとめ。
一部分かりやすいように追記修正しています。

洗礼名という不変性

蒲生氏郷と細川忠興

細川侯五代逸話集の読書メモ

忠興が藤孝の元へ戻った時期

どの細川越中守だよ

老人雑話の忠興

細川興秋の切腹したかもしれない場所の記述

ガラシャの早世した子供?について

細川興元の愛馬についてと本岡寺

細川興元の愛馬についてと本岡寺

細川興元は細川藤孝の次男、細川忠興の弟。

興元について、以前関ヶ原の戦いで馬と一緒に井戸に落っこちた逸話を紹介したことがあるのですが、今回はその馬についての記事。

▽参考はこちら

興元は関ヶ原合戦の後、細川家を出奔。
その後、なんやかんやあって茂木藩を立藩します。茂木藩は現在の栃木県茂木町。

興元の領地・茂木(栃木県)には、本岡寺というお寺があります。
そのお寺には興元と興昌(2代藩主)の

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細川家考察つぶやきまとめ②

細川家考察つぶやきまとめ②

過去にX(Twitter)でつぶやいていた細川家についての考察。

兼見卿記の細川家

興元の茶会記録関係

活版印刷のどちりなきりしたん

綿考輯録のガラシャ

細川ガラシャと百合の花

黒田長政と興元

細川興元の出奔

出奔後の細川興元

細川興元が出奔した後、細川家はどう対応したのか

細川興元が出奔した後、細川家はどう対応したのか

細川興元は細川藤孝の次男、細川忠興の弟です。

興元は関ヶ原合戦の後、細川家を出奔。

興元の出奔後、細川家家臣・松井康之の叔父である玄圃霊三が松井康之宛てに興元出奔に関して書状をしたためています。

興元の出奔について幽斎や忠興が言及している書状は今のところ見当たりません。
なので玄圃霊三の書状が興元出奔後の細川家の状況を一番把握できる情報源なのかな、と思います。

『松井文庫所蔵古文書調査報告

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大坂夏御陣大光君軍功之私記④

大坂夏御陣大光君軍功之私記④

大坂夏御陣大光君軍功之私記ラストです。

これまでのものはこちらから▽

大坂夏の陣の後の恩賞について。
興元も宗茂・長重のように戦功によって加増されるかと思いきや…?というかんじの内容。

後半のほうで、『茂木町史』のほうに表記されていた漢字でどうしても変換できなかった箇所がいくつかあり、そこは□表記としています。
虫食い文になっていますがご容赦ください。

 後末、高名詮議の時、土方左源太一番

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大坂夏御陣大光君軍功之私記③

大坂夏御陣大光君軍功之私記③

大坂落城前後の興元についてです。
単身落城した大坂城に潜入したり家臣に出迎えられたり。飢渇してるとか言いつつ首二つとってるパワフルさ。

①と②はこちらから▽

 七日夜、陣小屋定し大光君は、出羽守と参会、出羽守働、尤も勇壮なり、其の証人となるべし言上あらむとあるに出羽守答て曰、左はかりの働にあらず御尋ねあらば言上せん、此の方より言上致すべきにもあらずと、大光君曰、将の言誠にしかりたれど、角今そ覚

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大坂夏御陣大光君軍功之私記②

大坂夏御陣大光君軍功之私記②

細川興元は細川藤孝(幽斎)の次男、細川忠興の弟。
興元が大坂夏の陣に参戦したときの軍功記について紹介していきます。

①はこちらから▽

軍法通りの備えにしないまま合戦が始まり、土井方の戦況と興元隊の高名について。
あとまた馬の話がでてきました。関ヶ原の時といい馬の話が多い。

 河又武左衛門出陣の朝、佐藤勘兵衛と甲冑御身に増れり、我必ず功を立てんといふ、武左衛門笑っら行て制せずんばあるべからずと

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大坂夏御陣大光君軍功之私記①

大坂夏御陣大光君軍功之私記①

細川興元は細川藤孝(幽斎)の次男、細川忠興の弟。
興元が大坂夏の陣に参戦したときの軍功記について紹介していきます。

『茂木町史第5巻 通史編』より引用。
長いので、一部中略しつつ分けて投稿します。

大坂夏の陣において興元がどのあたりに備えていたか、あとは勝手に備えの位置を変えて周囲から反感勝ってる経緯とか。

大坂夏御陣大光君(細川興元法名)軍功之私記

 慶長二十年乙卯年関東大坂の御ハ睦破れ

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細川興元の家族について②

細川興元の家族について②

以前まとめたものから大分期間が空いてしまいましたが、その間にわかったことも多々あったので、改めてまとめてみました。

前回のものはこちら▽

間違っていたり、何か情報があったら教えていただけると幸いです。

細川興元の家族について

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細川興元ゆかりの場所:紅葉が岡

細川興元ゆかりの場所:紅葉が岡

細川興元は細川藤孝の次男。
細川忠興の弟です。
細川家は丹後を治めていたことがあり、興元も現在の京丹後市峰山を治めていたことがあります。

今回は『京都府の地名』より、興元が名付けた「紅葉が岡」という地名について紹介していきます。

紅葉が岡とのことです。
このことから興元が峰山城主だった1582年にはすでに最初の正室・いとと婚約していたことがわかります。
紅葉の頃には興元夫婦も二の丸で紅葉狩りな

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二代将軍徳川秀忠より茂木藩祖細川興元への御朱印状不所持の訳

二代将軍徳川秀忠より茂木藩祖細川興元への御朱印状不所持の訳

細川興元は細川藤孝の次男、細川忠興の弟です。

興元は関ヶ原合戦の後、細川家を出奔。
その後徳川家康の仲介で忠興と和解します。そののち、興元は秀忠の談判衆として取り立てられています。

今回は興元と茂木藩に関する逸話を紹介します。

『茂木町史5』より引用。
興元の孫にあたる興隆が幕府に対し、加増を示す御朱印が度重なる保留のために領地御朱印状がないと届け出た旨の書状です。

ざっくり現代語訳
大権

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細川興元が細川ガラシャに横恋慕してた説の元ネタを探る

細川興元が細川ガラシャに横恋慕してた説の元ネタを探る

細川興元は細川藤孝の次男。
細川忠興の弟です。
細川ガラシャは細川忠興の正室。
興元から見ると義理の姉です。

いつ頃からできたのか分からないのですが、現代の創作作品の中には一部、興元がガラシャに片思いしていた、という設定があります。
しかもこれがまあまあな数ある。

なぜ興元はガラシャに横恋慕し始めた描写が出てきたのか

ぶっちゃけよくわからない。
けれど、興元とガラシャは二人とも「キリシタン」

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細川興元の初陣

細川興元の初陣

細川興元は細川藤孝の次男。
細川忠興の弟です。

綿考輯録 忠興公(上)より。

ざっくり現代語訳
頓五郎(興元)殿は永禄九年丙寅の生まれで、天正五年の時は十二歳であった。
御高名を上げたかどうかについては計りがたいことだが、戦場に御伴い、忠興君と共に先陣を切ったことはあるまじきことだともいえない。

その理由はある時、太閤様の御前に身分の高い人々が列座され、忠興君の初陣である片岡城攻めのお話にな

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