大坂夏御陣大光君軍功之私記④
大坂夏御陣大光君軍功之私記ラストです。
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大坂夏の陣の後の恩賞について。
興元も宗茂・長重のように戦功によって加増されるかと思いきや…?というかんじの内容。
後半のほうで、『茂木町史』のほうに表記されていた漢字でどうしても変換できなかった箇所がいくつかあり、そこは□表記としています。
虫食い文になっていますがご容赦ください。
後末、高名詮議の時、土方左源太一番頭、中村九郎太郎一番の働きによって両人を第一の功と賞し、其外吟味委して、恩賞相当せりと云、大坂の役経て後、立花、丹羽、佐久間、大光君将軍家夜話に命ぜられ、四人隔々に相勤めたり、後立花飛騨守は筑前柳川の旧領全く給はり、丹波五郎左衛門は奥州二本松を給はり、各十一万石の禄なり
大光君と此列にて大禄賜るべき御評議の処、舎兄三斉(忠興)君御内意あって其事止みぬ、元和二年丙辰年常陸国筑波・河内両郡の内谷田部の郷六千二百石余の所被 宛行と也、右雅楽頭忠世、大炊頭利勝御取次也、於是都合一万六千石余の禄也、天の縦せる英傑十四歳の初陣より非常の軍功不可勝計、立花・丹羽と同しく十万石の禄を拝領あらん事相当也、□(本文は門に覧)牆の情□其寃誰か嗟嘆せざらんや、既ニ三代迄両家不和如仇讎なるはこれが為の故也
右難波之役、大光院様御勲功或は□紙に證となすべきあり、或は古老物語に数條書記に伝あれ共、其時の武合勝負は不分明によて老夫忘を起し書記せんと欲すれ共其事跡に暗し、僅に其□紙の書記、古老の口伝を見聞して記之暈、藩士此伝を読し武名の家に臣たるを弁へ武を励し勇を養て一日も忠義の志を失ふべからず
谷田部藩臣高山辨左衛門平 正英六十一歳記之
安永六丁酉年十二月
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