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少しでも、残酷さを減らすために出来ること

 なんとか、少しでも世の中が良くならないだろうか。

 そんな漠然とした思いは、濃淡は変わっても、いつも心の中にあるような気がする。それは、純粋に利他的なことではなく、そうなったら、自分ももう少し楽になるのではないか、といった打算的な気持ちも込みだったりする。

 同時に、戦争など大きな悲劇があると、何も出来るわけがないから、なるべく考えないようにしてしまう時もある。そんな人間の「少しでも世の中が良くならないだろうか」といった願いには、何の力もないのだと思うこともある。


星野源の言葉

 だから、もっと社会に対して力のある人に対して、勝手かもしれないけれど、そういう「世の中を良くしてくれるのではないか」という期待をしてしまう。

 この本↑は星野源のエッセイ集であるのだけど、同時にとても優れた闘病記でもあると思う。同時に支援とは何か?医療の本質とはどういうものか?といったことも考えさせられる部分も多い。

 それと同時に、星野源の、2011年から2013年の頃の気持ちが記録されている。アルバムでは『エピソード』と『Stranger』というミュージシャンとしてのキャリアを積んでいた時期のように見える。

「一部の人だけ聴いてくれればいい」なんてつまらないことは死んでも言わない。「どんな方法でもいいから売れたい」なんて恥ずかしいことは死んでも思わない。自分が面白いと思ったことを満足いくまで探りながら、できるだけたくさんの人に聴いてもらえるように努力する。それが我が地獄における、真っ当な生きる道だ。生きるとは、自分の限界を超え続けることであり、生きるとは、死ぬまで諦めないことである。

(「よみがえる変態」より)

 こうした真っ当なことを、人気も手にしていく人間に記してもらえることは、モデルケースを示してもらえる、という意味でも有難いことだった。だが、この文庫版は、さらに何年後かの星野源の視点まで入っている。

 その視点は、2019年、文庫化に際してのあとがきとして書かれている。それは、音楽活動だけではなく『逃げるは恥だが役に立つ』というテレビドラマの出演も含めて、国民的スターと言っていい存在になってきた頃のはずだ。

 苦しそうな彼と比べると、今の私は随分幸せな気がします。こんな風に文章で怒ることもなくなりました。何かを伝えようとするだけでなく、特に言いたいことはないが気持ちよく息を吸うように文章を書く、ということも自然にできるようになりました。今はそれがとても楽しいです。
 ただ、この作品の頃は、まだ希望をしっかりと持っていたと思います。
「もっとこうしたい」「世の中はもっといい感じになるはずだ」。まだ世間と対峙できていなかった当時の僕には烏滸がましくもそんな信念がありました。
 今、僕の目の前には、いつも絶望があります。
「もうどうにもならない」「世の中はいい感じになどならない」。どんなに頑張っても、この世の中は馬鹿なままだし、最悪になっていく一方だよ。例えば昔の自分にそう言っても、きっちり「いや、そんなことはない」と言うでしょう。そこが彼のとてもいいところだなと思います。
 もうそのような気持ちでいることはできませんが、私は知っています。世間を面白くするには、世間を面白くしようとするのではなく、ただ自分が面白いと思うことを黙々とやっていくしかないのだと。 

(「よみがえる変態」より)

 最初にエッセイ集が出された頃と比べたら、社会的な力は遥かに大きくなっているはずで、しかも、もともと真っ当な思いを持っていたように思える星野源に、どんなに頑張っても、世の中は良くならない、と言われてしまうと、何の力もない人間にとっては、やはり絶望が感染してくるような思いにもなる。

 でも、同時に、世の中を変えたい、と大きく構えることで、逆に何もできないのでは、ということも伝えてくれているようにも思える。

 自分が面白いと思うことを、それが世の中を変えるかどうかは分からないけれど、黙々とやっていくしかない。結果として、それが世の中を変化させるかもしれないけれど、世の中を変えようと最初から思っての行為はかえって無力なのではないか。

 それは、実際にある程度以上の社会的な力を得ないと分からないようなことも伝えてくれているのかもしれない。

残酷さを減らす、ということ

 でも、実際に「少しでも世の中を良くしたい」と思うならば、具体的には、どうすればいいのろうか。

 先日、この本を読んで、改めて「正義」や「公正」など、「正しいことば」の大切さを考えるようになった。

 どこまで理解しているかどうかについては、それほどの自信がないものの、それでも、ただ「世の中を良くしたい」という気持ちだけでは、そこに熱意があったとしても空回りしたり、どうすればいいのか、よく分からなくなったりするのではないか、といったことは、なんとなくわかった気がした。

 その中で、「正しいことば」を遠ざけるべきでない理由のようなことを覚えている。

 まったくあつかえないままだと自身やともに生きるひとたちを無防備に脅威にさらしてしまい、破滅的にひどいことが起こりうるからなのです。

(「公正を乗りこなす」より)

 それは、「残酷さ」を減少させることと関係があるようだった。そこでは、ジュディス・シュクラーという哲学者の言葉が紹介されていた。

 シュクラー自身の定義では、残酷さとは「より強い者・集団が、みずからの(有形無形の)目的を達成するために、より弱い者・集団に対して身体的な苦痛、そして二次的には感情的な苦痛を故意に与えること」とされます。つまり残酷さは、たんに身体的な危害を加えることばかりでなく、「屈辱・辱め(humiliation)」を与えることもふくみます。相手の自尊心を踏みにじったり、社会集団において恥をかかせたりすることもまた残酷さのひとつだということです。 

(「公正を乗りこなす」より)

 そうであれば、社会の中で生きていき、目指すべきことの一つが「残酷さを減らすこと」だという主張には、不思議な説得力の強さを感じた。

 シュクラーを経由するならば、「正義」をめざす実践である政治の目標を、つぎのように述べることができます。それは、わたしたちが恐る恐る社会を営み、他者とともに生きていく日常において満ち満ちている「残酷さ」を、あたうかぎり最小にしていくことだ、と。

(「公正を乗りこなす」より)

 そして、その「残酷さ」は外側にあるだけではなく、自分自身の内側にもあることを、忘れてはいけない、ということならば、それは他人事にはなりにくい。

 残酷さは、とり去ることができない「われわれの生命の根本的性質」にかかわるものだとモンテーニュは続けます。しかし、だからこそわたしたちはみずからのうちにある残酷さを自覚し、それとうまくつきあい、その悪影響を最小限にするよう努めなければなりません。わたしたち個々人が残酷さへの傾向をもってしまっていることと、じっさいに残酷さが公然と発露されることをなによりおぞましいと忌避することとはなんら矛盾なく両立します。いや、むしろ両立させねばならないのだとモンテーニュとシュクラーは言うでしょう。

(「公正を乗りこなす」より)

 あまり簡単に言うのは間違っているのもしれないが、自分自身が被害者にも、加害者にもなり得るが、それでも、「残酷さ」を減らす努力はしていくべきだ、ということだと思った。

 過去を顧みて、ついぞ絶えることのない残酷さの発露の歴史を確認することで、同時代と近未来においてもつねにそれは生じているし、また生じうるという冷徹な認識を新たにさせるものです。
 このとき、わたしたちはたんに「弱者」としての立場から公権力のもたらしうる恐怖と対峙するばかりでなくさまざまな規模の集団やその時々におけるさまざまな「力」の勾配における「強者」として増幅されてしまいうるみずからの残酷さをも直視しなければなりません。
 それは、わたしたちそれぞれに悪徳を備えた人間たちが否応なく寄り集まって、命がけの挑戦としての社会を営もうとするさいに、なによりもまず優先すべき政治的課題なのです。

(「公正を乗りこなす」より)

職場での残酷さ

 21世紀に入ってから、会社という職場で長く働くのが難しくなったように感じている。それは、自分自身が、正規社員などではなく、働くとしてもほぼアルバイトやパートなどと変わらない勤務体系でしか働いていなかったとしても、伝わってくるようなことだ。

 さらには、間接的に見聞きしたことや、メディアなども通した情報も加えると、その変化ははっきりとしているように思う。

 残酷さが増えている。

 そんなことを思ったのは、書籍を読んで「残酷さを減らすことが」が目指すべきことでもあるという、直感的な理解をしたにも関わらず、日本の社会の現実は、残酷さが増すことがあっても減ることがないのを、思い知らされるようなことが多いからだった。

(「ボリタスT V」 非正規公務員の8割が女性 問題山積みの会計年度職員)


 自分が無知なせいだけど、気がついたら、公務員でも会計年度職員という制度ができていた。

 その課題について、この「ポリタスTV」でも話されていたのだけど、仕事は正規職員と変わりなくても、給料は低く抑えられ、その上、会計年度、という区切りがあるから、基本的には1年以内。更新はあるとしても、それがあるかどうかはギリギリまで分からない。次がないと分かってから、次の仕事を探すには時間が足りない。

 こんな不安定な制度が取りいれられるようになった。

 こうした働き方は、精神的に負担が大きい。近い将来がどうなるのか分からないのに、収入も高いわけではない。だから精神的に病む人も少なくない、というような内容まで話されていた。

 しかも、その状況に対して、正規職員はそれほど関心を持てないらしい。毎日忙しければ、隣の席で働いている人が、残酷な制度によって苦しんでいても、自分だって大変だったら、気にかけることはできないのが自然だとも思う。

 それまでロクに知らない人間が言う資格はないかもしれないけれど、残酷な制度だと思った。

分断

 残酷さを増しているのは、同じ職場にいるのに、正規職員と、会計年度職員とで、待遇が違うせいも含めて、分断が生まれているせいもある。

 「正規非正規にかかわらず、やる気のある人は仕事をするし、しない人はしないので、『どちらが悪い』とは言えません。ただ正職員は仕事をしなくても雇用が守られ、待遇もいい。仕組みの中に格差と差別があるので、お互いに信頼関係を築けないのです」

(「東洋経済」より)

 その実際の例を、「鈴木さん」が伝えてくれている。

鈴木さんは3年前に相談員に採用されたとき、「任期5年」と言われていた。それが今年1月、急に上司から「実際は3年だったので、3月に公募を受けて」と言われた。待遇の低さに加えて「非正規があまりに軽んじられている」と失望し、退職した。

(「東洋経済」より)

 この上司は、正規職員だろう。何かしらの業務命令に従って、こうした言葉を伝えているだけに違いない。でも、そこには残酷さが含まれている。

 専門職などの中には、20万円以上の月収を得ている非正規公務員も存在する。しかし自治労連が2022年、会計年度任用職員約2万人に実施したアンケート調査によると、回答者の約6割が年収200万円以下だった。

 労働者の待遇改善に取り組むNPO法人「ASU-NET」副代表の川西玲子氏は、公務員の正規・非正規間で対立が生まれるのは、待遇の格差が労働実態と関係なく「公務員試験に合格しているか、していないか」だけによるケースが多いことが一因だと指摘する。

(「東洋経済」より)

 しかも、「雇い止め」も、急に告げられることが多いらしい。

 ASU-NETの川西氏も「『人事評価』『公募の結果』は闇の中で、行政の側にこれらを主張されると、たとえ上司の好き嫌いや、労働組合と関わっていることへの反感など恣意的な判断があったとしても、立証するのは至難の業です」と嘆く。

(「東洋経済」より)

 やはり、正規職員と非正規職員(役割を表す言葉の最初に、正か非か、という文字がつくのがおかしいけれど)の違い自体が、より残酷さを生んでいるようだ。

「私も正職員として働き続けていたら、公務員の常識が社会とずれていることに気付かなかったかもしれない。正規と非正規が不満をぶつけあう不毛な関係を終わらせて、ともに制度そのもののおかしさに目を向けて欲しい」と訴えた。

(「東洋経済」より)

無知という残酷さ

 自分の経験している範囲はとても狭い。

 それは、私のように社会の隅で生きている自覚がある人間だけではなく、誰でも一緒だと思う。

 さらに、自分と全く違う人間がいる、ということを知っていること、知ろうとすること。少なくとも話を聞こうとすること。そうした姿勢も意識し続けないと、自分以外の世界があることを実感するのは難しい。

 日本の企業の採用担当者にヒアリング調査をすると、これまで無業や非正規社員の時期があった若者に対する採用を躊躇する理由として、「そういう人は自由が好きなんでしょう。うちの会社に骨をうずめて一生懸命頑張ってくれる気になってくれるかどうかわからないんですよね」などと答える。しかし、それは明らかに経歴に対する差別である。

(「もじれる社会」より)

 こうした採用担当者の言葉に含まれている穏やかな残酷さには、ちょっと怖さも感じる。そして、このことに対して「経歴に対する差別」という指摘をしても、採用担当者は、おそらく戸惑うだけではないだろうか。

 この引用の中に出てくる採用担当者は、学校を卒業し、もちろんそれなりの個別の大変さはあったものの、正社員として雇用されるのが大多数だった時代に入社し、現在の地位にあるのだろう。

 だから、それ以外の、就職氷河期と言われる時期に、正社員に雇用されること自体の大変さとか、さまざまな出来事によって仕事を辞めざるを得ない状況に対しても、おそらく想像ができないのではないだろうか。

 そして、無業や非正規社員という時期がある人が、自ら望まなくても、どうしてもそうせざるを得なかったこともある、という事に対しても、考えたこともないのかもしれない。

 公務員の非正規職員と正規職員に関して、お互いのことを知らないことが分断を生むのではないか、という指摘があったのだけど、無知であることが生む残酷さが、思った以上に多いのではないか、とも思う。

残酷さに慣れてしまうこと

 とても個人的な経験に過ぎず、20世紀のことだったから昔のことでもあるし、今と比べたら景気がよかったはずなのだけど、マスコミ関係は、大手以外は待遇がいいとは言えなかった。

 それでも、自分が望んで選んだ仕事だったし、さまざまな現場や、いろいろな人に会って取材してそこで見たり聞いたりして思ったことや感じたことも含めて書いていくのは、やっぱり楽しくもあった。

 毎日のように締め切りがあるような仕事だし、徹夜もあったから、肉体的には辛い部分もあったはずだし、それに対しての報酬としての給料も、決していいとは言えなかったけれど、やりがいはあった。

 今振り返れば、それはもしかしたら、やりがい搾取と言われるような状態だったのかもしれないけれど、自分が書きたいと思うものを書きたい。無理とは感じていたけれど、できたら、それだけをして暮らしていければいいな、とぼんやりと思っていた。

 だから、会社を辞めてフリーのライターになった。

 特に、それまでその世界で知られているわけでもないし、顔が広くて仕事をもらえることもなく、さらには、あちこちに飲みに行って人脈をつくる性格でもなかったから、仕事そのものをなんとかすることから始めなくてはいけなかった。

 今、考えたら、それでよく仕事をくれる人がいたと感謝する思いにもなるのだけど、まだワープロもコンピュータも使えなかったから、手紙と企画書も全部、手書きで、それもかなり下手な字で、さらには「1、連絡が欲しい 2、こちらから連絡する 3、興味がない (その理由)」といったことを裏面に書き、表には自分の住所・氏名を書いた「返信用ハガキ」もつけたら、返事をくれて、さらには仕事を発注してくれる人までいた。

 それでも、仕事がたくさんあるわけでもなく、取材をしていたとき、その相手から、月にどのくらい締め切りがあるんですか?と聞かれて、割と素直に答えたら、〝そうですか。この前、取材を受けた〇〇さんは、月に20本くらいは締め切りがあるって言ってましたよ〟と同じ業界にいる著名なライターの名前を出されて、ちょっとへこんだこともあった。

 だから、半年先に仕事があるかどうかもわからないから、もしかしたら1年くらい先まであるかもしれない連載があるだけで、すごく有り難く、つい先の収入がわかることの方が少なく、最初は低めだけど軌道に乗ったら原稿料はあげるから、などと言われて、それが実現した記憶はなかったけれど、文句を言うことはなかった。最悪のときは原稿を書いたのに支払いがないまま連絡がとれないこともあったが、そのときは、それから乗り込んで交渉して戦わなくてはいけないと思うと、それがおっくうになり、あきらめてしまった。

 仕事を発注されるときに、原稿料のことも言われないまま、仕事をするのが普通だったし、少しでも、そのことに触れると、特に自分がまだ若い時は「お金の話をする人は、ダメになっていく」といったことを、編集者に言われるのも少なくなかった。

 それでも、どこにも所属しないで仕事をするのは、不安定が当然だと思っていた。

 3ヶ月先の収入しか分からず、発注を受けた時にいくら支払われるかも知らなかった。定期的に仕事をしていれば、その目安はついたものの、連載以外では、どのくらいの仕事ができるかどうかも分からなかった。

 それを10年続けていたら、それが前提になっていた。

 取材した相手に言われた「〇〇さん」はテレビなどでもコメントするような存在になっていたから、黙っていても仕事が来るのかもしれなかったが、私のような「売れないライター」は、こちらから働きかけないと仕事はなかったのに、それほど「営業」を熱心にすることもできなかった。

 その後、介護に専念し、仕事もしない時期が10年以上あった。

 その間に資格を取得したものの、現在も、非正規の働き方しかしていなくて、1年ごとの更新が基本のようになっているのだけど、1年間はとりあえず仕事があることがありがたく思えてしまうのは、それまでの働き方や無職の期間が長過ぎて、残酷さに慣れてしまっていたのかもしれない。

 考えたら、組織に所属していなくても、ハリウッド俳優でも組合があって、待遇改善のためにストライキを行ったり、小説家にエージェントがついたりしている話を、それこそニュースなどで聞いて知ってはいたけれど、自分と関係があるように思えなかった。

 だから、残酷さについて無知だったし、働くことに関する不安定さを減らす----それは残酷さを少しでも軽減することにつながるはずなのに、そうしたことにあまりにも無関心だった。

 自分は無力だったし、自分が働いて生きていくだけで精一杯で、今も貧乏なままだけど、こうした今までの自分の在り方も、残酷さを温存することに関係しているかもしれない。

 現在、会計年度職員のような制度が生まれてしまい、それが残酷であることがわかっていても、正規職員として立場が違う人間からは、その残酷さが見えにくくなっていて、それだけでなく分断されるようなことになっていて、それによって、残酷さが温存されているのかもしれない。

 ただ、それは同時に、個人の責任ではなく、社会のシステムの問題だとは思う。個人の心がけや、努力だけでは、限界があるのは間違いないはずだ。

大人のいじめ

 こうした本を読むと、21世紀の日本で働くことは地獄ではないか、と思ってしまった。

9年連続で「労働相談1位」は、「いじめ・嫌がらせ」

(「大人のいじめ」より)

 この書籍が発行されたのが2021年なので、この状況は現在の問題でもあると思う。

2017年10月にトヨタ自動車で起きた若手社員の自死、2019年8月に三菱電機で起きた新入社員の自死が、ハラスメントが理由であるとして労災認定されている。

(「大人のいじめ」より)

 その具体的な状況も明らかになっている部分がある。

 7月に配属された先で、教育指導の担当者からハラスメントを受けるようになったという。Bさんのメモには、7月上旬に「次、同じ質問して答えられんかったら殺すからな」「お前が飛び降りるのにちょうどいい窓あるで、死んどいた方がいいんちゃう?」「(飛び降りたら)ドロドロ●●(Bさんの名字)ができるな」「自殺しろ」という教育担当者の発言が記されていた。 

(「大人のいじめ」より)

 そこにいたわけでもなく、直接知っていることでもないから、無責任かもしれないけれど、これは本当にひどいことだと思った。

 同僚や部下によるいじめについても、労基署が「いじめ・嫌がらせ・暴行」と認定せず、業務上の「対立」であるとして、「トラブル」という扱いにしたため、労災として認められなかったというケースが少なくないと見られる。

(「大人のいじめ」より)

 知らないうちに、そういう世の中になってしまったようだ。などと他人事のようには語れないことがあったのが、この本を読んだ頃だった。

 業務による精神障害の最たるものとして、「過労自死」「過労自殺」という言葉がよく使われてきたが、いまやその大半は「ハラスメント自死」「職場いじめ自死」という表現の方が当たっているのではないだろうか。

(「大人のいじめ」より)

新しい差別

 本来あるべき職務を全うしようとしたり、職員の増加や余裕を求めたり、さらには虐待に違和感を抱いただけの労働者すら、コストカット優先の職場にとっては「迷惑をかける」存在であり、「排除」や「矯正」の対象となってしまう。子どもや高齢者を大切にしたいという思いまでもが、いじめの引き金となってしまうのだ。

(「大人のいじめ」より)

 この「大人のいじめ」の書籍の中では、現在の状況を招いたと思われる様々な要素が描かれているのだが、特に根が深くて、気持ちが重くなりそうなことが、この『労働の「質」を放棄させるいじめ』に関することだった。

 この労働の「質」を放棄させるいじめの舞台は、医療・福祉分野にとどまらず、広い意味での「ケア」である教育や他の公共部門、IT、さらにはジャーナリズムやクリエイティブ系のような、単純化に限界があり、社会性の高い労働にも広がっている。

 その職場いじめは残酷さを増している。経営に服従しない労働者を炙り出し、見つけたら人ではなく、人格を認めなくて良い「敵」として扱い、見せしめにする。ストレスの発散先を求めているどころか、「会社目線」に立って、会社に貢献しない労働者の存在を許すことができなくなり、攻撃性を高めている。
 ある意味、加害者にとって、職場の生産性を下げる「元凶」となる労働者を見つけていじめることが、「使命感」のようになっており、「自警団化」していると言っても差し支えないだろう。

 自警団化する経営服従型いじめが、自分が「得をする」ためのものとは限らないということは、繰り返し強調しておきたい。

(「大人のいじめ」より)

 ここからの分析は、ある意味でとても怖いけれど、すごく納得できるものでもあった。

 本書で紹介したほとんどの職場では、加害者の労働者にとって、いじめを行ったところで、自身の出世は見込めず、獲得したり、しがみついたりするほどのポストもない。

 むしろ、いじめを行うことが、自分も苦しんでいる働かされ方を擁護することになり、結果、自らの首を絞めている。日本では、労働者にとって、およそ「合理的」とは思えないかたちで職場いじめが起きている。それほどまでに、経営の論理と、それによる「規律」が、労働者に浸透しているのだ。  

 現在の日本社会においては、「職場に少しでも迷惑をかける」「コストを優先しない」「経営の論理・市場の論理に適合的でない」労働者は、平等に扱わなくても、人権を認めなくても良い、差別の新しいカテゴリーとされつつあるのではないだろうか。

(「大人のいじめ」より)

少しでも、残酷さを減らすために出来ること

 書籍を通して、もしくは自分の限定された経験に過ぎないけれど、こうした残酷さを知ると何もできないのではないか、といった気持ちになる。

 ただ、まずは、社会には「残酷さ」にあふれていること。それを、それが人間の社会であるから仕方がない、という諦観のようなものに自分を落ち着かせずに、そのことを、自分の身近で起こっていたとしたら、まずは具体的に把握すること。

 もし、できたら、そこからなんとか出来るだけでも、残酷さを減らすような工夫や努力をしてみようとして、少しでもすること。

 残酷さとは、定義を細かくすれば、キリがないし、残酷さを体現しているような人は、それを正当化しようとしそうだが、繰り返しになるが、基本的には、繰り返しになってしまうが、こうしたことだと考えればいいのではないか。

 残酷さとは「より強い者・集団が、みずからの(有形無形の)目的を達成するために、より弱い者・集団に対して身体的な苦痛、そして二次的には感情的な苦痛を故意に与えること」とされます。つまり残酷さは、たんに身体的な危害を加えることばかりでなく、「屈辱・辱め(humiliation)」を与えることもふくみます。相手の自尊心を踏みにじったり、社会集団において恥をかかせたりすることもまた残酷さのひとつだということです。  

(「公正を乗りこなす」より)

 当然ながら、「大人のいじめ」も、残酷だし、会計年度職員という、少し先のことも分からないまま働くシステムも残酷だし、自身の仕事で手一杯でそれどころではないとしても、少なくともこうした残酷さを知らないままなのは、知らないうちに残酷さの側に加担してしまっていることにつながりそうだ。

 あまり、そう言ったことを考え過ぎて、自分を責めるのも違うのかもしれないけれど、まずは、自分が残酷な扱いを受けたら、それをただ受け入れるのではなく、自分ができる範囲で、抗議をする。異議を唱える。

 さらには、自分ではない誰かが残酷な行為をされていたら、やはり、それは残酷なことだと指摘できたら、とは思うが、自分でもできそうもないので、それでも、気持ちのどこかで目標として忘れ去らないようにする。

 残酷さに負けないように、相談窓口などを利用することも考えられる。

 さらには、加害側に回らないように内省を忘れない。これも前出した事で繰り返しになるのだが、再確認したい。

 過去を顧みて、ついぞ絶えることのない残酷さの発露の歴史を確認することで、同時代と近未来においてもつねにそれは生じているし、また生じうるという冷徹な認識を新たにさせるものです。
 このとき、わたしたちはたんに「弱者」としての立場から公権力のもたらしうる恐怖と対峙するばかりでなくさまざまな規模の集団やその時々におけるさまざまな「力」の勾配における「強者」として増幅されてしまいうるみずからの残酷さをも直視しなければなりません。
 それは、わたしたちそれぞれに悪徳を備えた人間たちが否応なく寄り集まって、命がけの挑戦としての社会を営もうとするさいに、なによりもまず優先すべき政治的課題なのです。

(「公正を乗りこなす」より)

 もっと大きく考えれば、社会のシステム自体によって減らせる残酷さも少なくないはずだ。だから、選挙があったら、その視点によって投票する人を選ぶようにする。

 選挙に行っても何も変わらない。

 そんな言葉は数限りなく聞いてきたし、確かにそうだろうと思うことも多い。ただ、とても微力ながら、さらには年齢を重ねても恥ずかしいほど未熟ながら、それでも時々、世の中が良くならないだろうか、と思うことがある。

 そんな時、個人として何かをしても、砂漠に水を撒く、ということは、こういうことか。としか思えないけれど、そういう社会に働きかける、という大げさなことをするとしたら、どれも微力だとはしても、実は選挙の投票というのは、一個人として社会に対して及ぼせる影響としては、相対的にはもっとも強いのではないか、と思うようにもなっている。

 だから、選挙にも行くし、特にこれからは残酷さを減らせる可能性がある人に投票したいと思っている。

 できることは少なくて、自分の力も小さいままのだけど、それでも、考え続けて、やれることはやっていこうとも思っています。




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