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言葉を考える⑳「むずい」と「恥ずい」。

 やっぱり言葉はかわる。

 自分にとって違和感があったとしても、他の人たちが使い始め、そういう人たちが増えて、ごく日常的に聞くようになると、定着していって、気がついたら、その耳慣れなかった言葉が一般的になって、そのうちに辞書にも載るようになり、当たり前の言葉になっていく。

 私にとっては、それ自体が古い感覚なのだろうけれど、新しい一般語になろうとしているように思えるのが、「むずい」と「恥ずい」だった。


むずい

 難しい、と言う場面で、「むずい」という言葉多く聞くようになったのは、21世紀になって、テレビのバラエティなどで出演者が「むずい」を使うようになっててからだ。ただ、少しでも考えたら一般的に広まっているから、テレビ番組で使われるようになったはずだった。

 もちろん、難しいを短くした言葉であることは間違いないのだけど、すでに定着していたのかもしれないが、最初は抵抗感があった。

 それは、とても個人的な感覚に過ぎないのだけど、「難しい」と言っているほうが、その言葉を発している時間の長さの分だけ、その難しさについて考えようとしているニュアンスが生まれやすくなるのではないか。それは、「むずい」という言葉が現れて初めて感じるようになった。

 おそらくは聞いている内容が、分からないけれど、それは、まだ自分が理解できていないからで、もしかしたら理解できるかもしれない、といった思考を生み出しやすいかもしれない、と思えたのは、もちろん「むずい」と比べてのことだった。

「むずい」は、歌詞にすれば。音符一つにのせても不自然ではないような気がする。それは、かなり感覚的な言葉にも聞こえるせいだ。

 だから、難しい、というよりも、むずい、と言った方が、ある内容について、やや拒絶感が強まりそうで、使い過ぎると、考える力のようなものが減りそうな気がする。

 極端に言えば、自分にわからなさを生じさせるような言葉や考えは、存在しなくてもいい。そういうことは悪に近い。といった意味合いも生む可能性が、むずい、と一つの音符で言い切れることによって、高まるような気がする。

 だから、むずいを使わないほうがいい、というのではないのだけど、この場面では、むずい、なのか、難しいなのかを使い分けた方が、結果として自分の考える力が伸びる機会を得られるのではないか。----そういう発想はすでに老人に近くなっているのか、という自分への疑念もあるものの、そんなことを感じた。

 ただ、むずい、という拒絶感や、瞬間的な断定や評価だけでは、その場をきちんと乗り切れないと判断されたときには、(これも推測に過ぎませんが)、むずいな〜、という言葉が使われているような気がする。

 これも、言葉の発声時間を長くすることによって、考える体勢を作る工夫のようにも感じた。

(こちらのコラム↓では、もっと冷静で正確な内容になっています。むずいも、はずいも、私が思っているよりも、はるかに長い歴史があるようでした)。

はずい

 はずいも、個人的には、最近の言葉、という感覚になる。

 そして、これもまったくの独断なのだけど、むずいよりも、はずいの方が、短い表現になった必然性があるように思っている。

 恥ずかしい。と思うこと自体は、いたたまれない。特に、自分に直接関係のある恥ずかしい話は、できたら直面したくないし、目を背けたい。同時に、ただ黙って、その出来事から通り過ぎようとしても、そのこと自体が、後になって、より恥ずかしい事実となる可能性もある。

 だから、自分で話すのか。それとも誰かが伝えてくるのか。それによって微妙に違ってくるのかもしれないけれど、話されている内容が自分にとって、とても恥ずかしいことであれば、話題になって、だけど、できたら一刻も早くその場から立ち去りたいか、もしくは、その内容が、次の話が出ることによって、忘れ去られないだろうか。

 そんな思いがあったとしたら、自分の恥ずかしい思い自体も、少しでも短くしたい。そして、そのことに対して「恥ずかしい」と言っている時間自体も、恥ずかしいから、それを短くしたい。

 はずい。

 だから、この言葉が誕生する方が、かなり自然なような気がする。それもあって、はずいの方が早く定着すると思っていたのだけど、どうやら、はずいも、むずいも、個人的な感覚に過ぎないのだけど、同じようなタイミングで広がっているように思う。

 ただ、むずいも、はずいも、自分が使うのは、まだ恥ずかしいから使ったことがない。

定着

 ついこの前まで、むずいは感覚的で、難しいは、どちらかといえば、知性も働かせようとしている言葉に思っていた。だから、それも一方的な感覚なのだけど、考えるような場面や、考える人たちは、むずいを使わないのではないかと勝手に感じていた。

 このポッドキャストは、歴史を考えたい時に、重くなく、それこそ難しくなく伝えようとしているメディアで、時々聞いているのだけど、そこで話をしている人たちは、明らかにアカデミックな能力がベースにあるのだろうと思っている。

 ある回で、話し手が3人いるのだけど、2人以上が「むずい」と連発していて、アカデミックなこと自体にすぐに価値があるわけではないのだけど、こうした人たちも、日常的に使っているのを知って、本当に定着しているのだと思った。

 こうして、自分がなじみがないのは、身近に自分よりかなり若い世代がいなかったり、人との交流が元々少ない上に、コロナ禍以来、さらに人と会う機会が減ったせいもあるかも、と改めて思うと、ちょっと寂しくもなった。

 そのポッドキャストの番組内で、むずいは連発されていたのだけど、難しいとの機能の違いも、もう一つあるようだった。

 誰かが、「難しいよね」というと、「そうだよね」と言った同意の言葉になりがちなのだけど、「むずい」と発すると、「むずい」「むずい」と、同じ言葉を反復していて、それは、「難しさ」をより共有できる行為に感じた。

 それは誰かが「難しい」と判定したことに同意する、というよりは、「自分も難しいと思っていた」という感覚を持ちやすく、それこそ、「難しい課題」に対して一緒に考える姿勢ができやすいかもしれない。

 そういったこともあって、むずいは、定着してきた可能性もあると、思っていた。




(他にも、いろいろと書いています↓。よろしかったら、読んでもらえたら、うれしいです)。



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