見出し画像

「現在」のアート。--------『あなたのアートを誰に見せますか?』。 東京藝術大学大学美術館 陳列館。(〜8.27)

 東京藝術大学には美術館もあって、何回か行った時、学食も利用して、そのとき、当然だけど、藝大の学生さんもいて、とても無責任な印象だけど、とても楽しそうに見えた。自分が若いときには考えもしなかったし、実際に入学しようとしたら無理に決まっているのだけど、芸術系の大学も学ぶにはいいところではないか、と感じた。

 学内に美術館もあって、それに作品をつくる場所にもかなり恵まれているし、何かを創作することで自分の時間を使えるのをうらやましく思った。ただ、これは、何も知らない無責任な感想でもあって、誰かにとっては怒りをかうようなことかもしれない、というような自覚もある。


サッカー

 以前の個人的な藝大のイメージは、都内で国公立戦というものがあって、そこで、サッカー部として、一回だけ試合をした時のままだった。その試合では、藝大のチームには二人モヒカンのプレーヤーがいた。

 試合前にセンターサークル付近でどちらのチームも一列に並んで、キャプテンがコイントスをして、どちらが最初にボールをプレーするか、どちらのエリアなのかを選択し、最後にどちらも頭を下げるという一連の「儀式」のようなことはどんなレベルのサッカーでも行うと思うが、その時に、相手のことをそばで見る。

 私はディフェンダーをしていて、だから、背番号で誰が自分がマークすべき相手なのかは、わかることが多い。そして、その相手はモヒカンの一人だった。それも、真ん中の髪の毛だけを立てて、その周りは剃り上げるというハードなモヒカンだった。

 反射的に嫌だと思っていたけれど、試合に勝つためには、きちんとマークする必要がある。試合が始まってすぐに、このチームの中では、トップの位置にいるようなプレーヤーだから、特に足技が上手いのはわかった。だから、より密着するような距離を取る必要があって、やっぱり、それもちょっと嫌だったのだけど、だけど、マークするしかない。

 そのうちに、わかってきたのは、このモヒカンのプレーヤーはヘディングをしない、ということだった。はっきりとは分からないけれど、せっかく固めた髪型が崩れるのは嫌だったのかもしれない。それは私にとっては有利なことで、それもあったせいか、珍しく大勝した。

 それ以来、芸術系の大学に対しての偏見のようなものが続いた。
 
 サッカーより、髪型を優先させるような価値観を持つ人たち。そんなふうに思ってしまい、だから、アートにより興味を持てなくなっていた。

東京藝術大学美術館・陳列館

 だけど、とても勝手なことだけど、30歳を過ぎてから、急にアート、それも現代アートに興味を持ち始めてから、藝大への見方も変わった。自分がすごいと思うアーティストの中には、藝大出身者も少なくなかった。

 会田誠、村上隆、宮島達男、日比野克彦、山口晃……。

 それで、やはり、何かがある場所なのかもと思うようになり、上野に行き、駅から歩き、その校舎などを見ると、そこには時間の蓄積もあるから、なんだかすごいのかもしれないとも感じるようになったのは、こちらの勝手な印象の変化だった。

 そして、その場所は行ったことがなかったけれど、陳列館と呼ばれるところで興味ある展覧会があるのを知った。だけど、そこには足を踏み入れたことさえなく、その響きが、なんだか特別感もあったけれど、勝手に遠いと思っていた。だけど、東京都美術館に行くとき、地図を見たら、そこからもう少し歩くと存在することを知って、行こうと思った。

あなたのアートを誰に見せますか?

 自分の無知なせいもあるけれど、その展覧会の参加作家で知っている名前は、2人だけだった。

 現地に着く。

 陳列館という名前で、入り口は歴史の流れを感じさせるようなつくりだったのだけど、中はホワイトキューブになっていて、そうなると、やっぱりギャラリーに来た、という感じになる。

 受付には人がいて、とても柔らかく応対してくれて、芳名帳に名前を書きながら、なんでもない一般の人間の署名だから、数以外の意味はないのに、といつものように思う。それでも、ハンドアウトもきちんと制作してあって、それを渡してくれるのは、展覧会を見に来た気持ちが、やっぱり高まる。

『社会の様々な問題に向き合うアーティストの作品を通して、孤独、身体とセクシャリティ、人間と自然の関係、他者との協働や連帯など、さまざまな今日的問題について考えます。さらに「オーディエンス」の存在に注目し、アーティストとそれを見る人との相互関係と鑑賞体験の新たな可能性を探ります』(ハンドアウトより)。

 問題がない時代はないと思うけれど、それをアートの作品として形にしてくれると、意外だったり、驚いたり、視点を変えてくれたり、感覚的にわかったような気になれたりする。

 そうした意味では、おそらくは、現代が最も質的にも量的にも豊富な作品が見られる気がするので、その点については、ちょっと恵まれているような、ありがたい気持ちになったりもする。

リー・ムユン

 入り口を入ってすぐのところにカーテンで仕切られたスペースがあり、そこには映像作品が上映されていた。

「モノローグ」というタイトルがつけられていて、私が見た最初には「ミューズ」と呼ばれた女性の、その追悼のニュースが流れ、だけど、本人の映像が「ミューズ」などと言われたことを後悔している、といったことを話していた。

 次は、駅のホームのカメラに向かって、ここに閉じ込められている。と、つぶやくように話をする男性。

 それから、何人も、同じようにカメラに向かって、「モノローグ」をする映像が流れる。それぞれの役を演じているのだと思うのだけど、それでも、ドキュメンタルな感じは十分にした。

 不思議な不穏さがあった。

『リー・ムユンは日本に住む中国人として、違和感や疎外感に遭遇する自身の体験を元に、人間誰もが持つ孤独や卑屈さをユーモアを交えて映像やラジオドラマの形式で表現してきました』(ハンドアウトより)。

 そのプロフィールはこうだった。

『2000年中国上海生まれ。東京藝術大学美術研究科修士課程在籍。映像やラジオドラマなどのタイムペースド・メディアを用いて独自のナラティブを表現する。自らの経験に基づいて、人の内面にある卑屈さや疎外感、孤独を描き、それらを他者と共有できるような作品作りを試みる』(ハンドアウトより)

 あまり年齢のことを言うのは失礼だけど、すでに、この世代は映像が日常なので、あとはどう使うかだけになっている自然さを感じた。

岡田夏旺

 その部屋を出て、すぐ右側に白い防護服のようなものが並んでいた。

 それは、清掃の仕事のための白い服で、作家自身が、ホテルの清掃バイトをしていて、そこで知り合った人にインタビューをして、それを映像として流している。

 同時に、汚れているもの(これが何なのかは、分からないままだったけれど)を、その「同僚」と、「清掃作品」を制作しながら話を続けていて、その「同僚」との距離感は自然に感じた。

『ホテルの清掃のアルバイト先で高齢のスタッフや外国人のスタッフと出会い、それぞれの仕事や人生への思いに接してきました。同僚と協働しながら作り上げていく「清掃作品」を映像インスタレーションとして提示してします』(ハンドアウトより)

 こうした作品に接するたびに、ミレーの作品のように「農民」を描いて、本人は有名になったけれど、その描かれた「農民」は無名のまま問題、といったことが頭をよぎったりもする。

 でも、誰に見せたいですか?という質問に「清掃の仕事をしていないすべての人」といった言葉をまっすぐに伝えている、この作家を思うと、いろいろなことを考えたりする前に、自分が、これは伝えるべきことだ、そして私がやりたい、という衝動に従うことも大事ではないかとも思った。

 もし、こうした作品がなければ、私のような(清掃業界を知らない)鑑賞者は、こうした場所で働く人の言葉や思いを知ることも全くなかったのだから、伝えることの意味はあるのだと思う。

 これはあくまで鑑賞者の推測だから、この2001年生まれで、東京藝術大学の修士課程で学んでいる岡田夏旺が、もっと考えた上で、作品を制作しているのかもしれないが、どちらにしても、現在の本人が、ウソなくベストを尽くしているように感じられた。

青山悟

 鑑賞者として、名前と作品を知っている作家だった。

 これまでの作品は、こんなものまで刺繍で表現できるんだ、といった、どこか工芸的な驚きも含めて与えてくれる印象があった。

 だから、今回、タバコの吸い殻を、刺繍として作品化しているのは、少し意外だった。

 「N氏の吸い殻」。

 それは、このコロナ禍の間に、倒産した知人のN氏の、もう稼働していない工場のような場所に落ちていた吸い殻を刺繍でつくったものだった。その由来を知るだけで、鑑賞者の思いはさまざまな幅を持つことになる。

 同時に、この作品のキャプションに、こうしたものを作品として制作し、展示していいのだろうか、といった葛藤も書いていて、それは、ある著書の言葉を読んで、伝える意味があるのでは、と思ったエピソードまでも載っていた。

 それは誠実とも偽善的ともとれそうだけど、でも、やはり作品がなければ、私のような鑑賞者も知らないままだった。こうした葛藤があるのが、清掃をテーマとした岡田との違い(どちらがいいとか悪いとかではなく)で、それは青山が1973年生まれというベテランだから、考えることが増えるということかもしれない。

 そんなことまで思わせてくれた。

 さらに、今は稼働していない工場のような場所が映像で映されていた。こういう作品も、その由来を知らなければ、見え方が違うはずだった。

メラニー・ボナーヨ

 展示空間の一番奥。仕切りで区切られたスペースから、1階の、どの作品を見るときも、音声は流れてきていた。

 そこの部屋の映像は、人々の体があふれていた。

『2022年のヴェネツィア・ビエンナーレのオランダ感を代表したメラニー・ボナーヨの《When the body says Yes》では、ワークショップを通して人々が互いの身体に触れ合い、身体に関する悩みや違和感、文化と身体の関係などについて語っています』(ハンドアウトより)。

 展覧会では、アートということで、おそらくは許容されているのだけど、普段なら制限されそうな映像もあって、だけど、そうでないと、アーティストの伝えたいことは伝わらないから、当然、制限が少ないのが当たり前で、それでも、やっぱりちょっとざわざわするのは、自分も常識にとらわれているのだと思っていた。

参加作家

 会場は2階にも続いていて、この陳列館の天井が高く、気持ちよく、それにおそらくその時代にしかないような、特殊な造りが、でも、作品にあっていた。

 恵まれた場所が、藝大には、多分たくさんあるのだろうと思った。

 自分の理解の不足などもあって、おそらく十分にその魅力などがわかっていないのだろうけれど、他の参加作家の作品も質は高いのだと思う。

 アンドレア・バウアーズ&スザンヌ・レイシー。小林正人。パク・サンヒョン。海野林太郎。

 人によって、印象に残る作品も違うのだろうし、できたら、現場で見た方がいいし、それぞれの参加作家に「誰に見せたいですか?」という質問をして、それに対する答えも提示されているので、それも含めて、考えさせてくれるようになっているので、なんだか、ぜいたくな空間だった。


(2023年8月27日まで。入場料は無料です)。

 

他にも、いろいろと書いています↓。よろしかったら、読んでもらえたら、うれしいです)。




#最近の学び   #イベントレポ    #東京藝術大学美術館陳列館
#あなたのアートを誰に見せますか#現代美術   #現代アート
#リー・ムユン   #岡田夏旺   #青山悟   #メラニー・ボナーヨ
#参加作家   #芸術家   #アーティスト #現代美術家
#東京藝術大学   #上野

この記事が参加している募集

イベントレポ

最近の学び

記事を読んでいただき、ありがとうございました。もし、面白かったり、役に立ったのであれば、サポートをお願いできたら、有り難く思います。より良い文章を書こうとする試みを、続けるための力になります。