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読書感想 『映画を撮りながら考えたこと』 是枝裕和  「すべてを語れる凄さ」

 この人の凄さ、というのは分かりにくい。
 というよりは、自分の狭い見方では全体が捉えられないほど、存在が大きいのかもしれない、と思うようになったのだけど、この本を読んで、カンヌのパルムドールという結果だけでなく、そこに至るまでの過程が凄いことを、少しだけ分かったような気がした。

 ここには「映像のレシピ」が惜しみなく書かれている。だけど、誰もが、同じように仕上げられるわけでもないことも、分かったと思う。

『映画を撮りながら考えたこと』 是枝裕和

 読んでいる感触は、オープンな風通しの良さだった。
 すべてを語っている正直さを感じた。

 若い頃、20代前半は、華々しいエピソードが少ない。

 20代、制作会社で企画がボツになり、干されたような状態になっていて、そこから、自分の企画で初めてのドキュメンタリーを制作し始める。だが、その取材も撮影も進んでいたところで、根本的にその企画を考え直さないといけないような出来事が起きる。

 そこで、番組の構成自体を考え直すことにして、さらに取材を進めた。最も重要な取材相手は、家族を自殺で失ってしまった人であったが、その相手と緊張感を保ちながらも、誠実に関係を作っていく、というオーソドックスでありながら手間のかかる作業を丁寧に進めた様子が伝わってくる。ただ、是枝氏の表現の中に、私はこれだけ頑張った、こういう手法でうまく取材が進んだ、といった自慢がないので、表面的な「凄さ」は、やはり分かりにくい。

 ただ、この時から、例えばドキュメンタリーを制作しているときに、「ドキュメンタリーとは何か?どんな意味があるのか?」といったことを考えながら仕事をしているように思える。

 それ自体が、今の是枝氏につながる要素でもあるように思えるけれど、そんな大きなテーマを持っている若い人間が、まだ力がない頃に、どんな風に扱われるのかは想像もできて、だから、うまく行っていなかったのかもしれないとも思うが、それを貫いたことが、結果としてはカンヌまでつながっているように思う。だけど、それは、受け取る側の「成功者バイアス」もあるかもしれない。

 ただ、その是枝氏が考えていたことは、引用するには長いけれど、「ドキュメンタリー論」としてはコンパクトなので、ここに載せたいと思います。

 「たまたま私がカメラを向ける側であなたが向けられる側だけど、そこで成立する作品または番組において、豊かな公共的な場、公共的な時間というものを互いの努力によって創出していくこと。それが放送である」という考え方がもし成り立つのであれば、取材者と被取材者が対立せずに同じ哲学のもとに番組を共有することができます。理想論かもしれませんが、僕がこの番組を成り立たせる根拠はそこにありました。(もちろん、権力は別です。警察や政治家など公的な立場にいる人を相手にするときは、隠し撮りや電話の盗聴も必要であればするべきだと思います。それで訴えられるのであれば訴えられればいいし、裁判をして負けるのであれば負けてもいい。それでも撮らなくてはいけないものは撮るべきだという覚悟が、そのようなドキュメンタリーをつくるときには必要です)

 この番組は、ドキュメンタリーでありながら反響が大きく、2回ほど再放送され、のちにさらに取材が続けられて1冊の本になる。

「出会う力」と「学ぶ力」

 その後も、読者の印象としては、一つ一つの仕事をしていくときに、その現場で起こったことに「学ぶ力」がとても強く、だから、どんな仕事でも結果として、1作ごとに成長しているのではないか、と思わせる。

 例えば、やはりドキュメンタリーでのこと。

 被写体のこちらへの「働きかけ」を意識的に番組のなかに取り込んだのですが、全体を通してその「働きかけ」の時間がリアルというか、取材者と被取材者の間にあった透明な膜を破かれたように感じられました。

 こうした経験の積み重ねで、さらに育っていく確信。

 僕は「やらせ」とは自己のイメージ(フィクション)を現実に優先させてしまう閉じた態度から生まれるものだと考えています。その意味では、真面目な社会告発型ドキュメンタリーだろうが、撮る前からあり得べき理想が確固としてつくり手のなかに存在し、そこへ精神が閉じてしまえば、目指す志のいかんを問わず「やらせ」だと思います。

 例えば「空気人形」での主演のぺ・ドゥナという優れた俳優に「出会い」、そして「学ぶ」こともあった。

 ひとりずば抜けたプロフェッショナルがいると、相乗効果で周りも自分のプロフェッショナルな部分を引出させる、というのを実感した現場でした。もちろん僕自身もそのひとりです。

 是枝氏の「出会う力」と「学ぶ力」は一見しても分かりにくいが、それでも著書とはいえ、少し注意深く追っていくと、結果として突出しているように思えてくる。ただ、それは、当初から自分だけで作品を作っていない、という感覚があってこそ、かもしれない。

 映画監督は作家なのか職人なのかというのは、おそらく監督自身にとっても意見の分かれるところだと思いますが、僕自身は少なくとも映画は自分の中から生まれるのではなく、世界との出会いを通してその間に生み落とされるものだと認識してきました。

これからの「共同体」

 是枝氏は、映画監督としては、海外の映画祭に参加し続けていることもあり、やはり、例えて言えば、発想がメジャーリーガーなのだと思う。だから、国内だけの基準で見ていると、その全体像が見えにくいのかもしれない。

 国内の状況も「世界基準」から語っているから、より批判的に聞こえてしまう可能性もある。

「インターネットを漂っている人がなぜ右翼というかナショナリストになるのか?」。この問いを考えていくと、人とつながっている実感がない人がネットへこぼれ落ちたときに、彼らを回収するいちばんわかりやすい唯一の価値観が「国家」というものでしかなかったのだということに、気づかされるのです。現代の日本は、地域共同体はもはや壊滅状態だし、企業共同体も終身雇用制の終焉とともに消えたし、家族のつながりも希薄になっている。そこで、共同体や家族に代わる魅力的なもの・場所・価値観(それを「ホーム」と言ってもいいかもしれませんが)を提示できないかぎり、彼らは国家という幻想に次々と回収されていくでしょう。

 こうした問題点は、今も継続しているのだけど、是枝氏は、回答とも言えることまでも書いている。自分がプロフェッショナルとして、国も人種も超えて所属できる「共同体」があれば、それはどこか安心感につながる、といった可能性である。

 映画祭というのは、「映画の豊かさとは何か?そのために私たちは何ができるのか?」を考える場です。映画を神様に譬えるつもりはありませんが、映画の下僕として自分たちに何ができるのかを思考し、映画という太い河に流れる一滴の水としてそこに参加できる喜びをみなで分かち合う、それが映画祭です。
 意外だったのは、自分もまた百二十年つづいてきた映画という歴史の鎖の輪のひとつでしかない、という自覚が諦観である以上に、自分にとっては新しく故郷が見つかったような、不思議な安堵感につながっていたことだった。

希望の言葉

 そして、こうしたことを背景として、映画同好会の大学生でなく、この書籍が出た2年後に「万引き家族」でカンヌのパルムドールを受賞する著者が、監督歴20年を超えて、こんな「希望の言葉」を書けることに、勝手に光を感じてしまう。

 愛は映るのだ、と気付いたのは大学生時代、早稲田のATCミニシアターで、フェデリコ・フェリーニ監督の『道』と『カビリアの夜』を見た十九歳のときでした。愛の量や質や純度というのは他人と比べるものではないと思いますが、この『海よりもまだ深く』は、いまの僕自身の精一杯の愛を込めたつもりでいます。 

 

 特にこれから映像に関わろうとする人間であれば、必読の本だと思います。終盤に、製作費などの具体的なことまで書いてあります。また、何かを伝えたい、と思っている人も、ジャンルを問わず、読むべき書籍だとも思います。

 また、これは、大きなお世話かもしれませんが、行き詰まっている人にも、もしかしたら、もう一度、自分が望んでいたことを思い出し、明日から、少しでも進む力になりそうな書籍だとも思いました。

 もちろん、映画が好きな方にも、間違いなくオススメできます。




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