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「普通」という言葉の「暴力性」について、考える。

 もう何年も前になってしまったのだけど、「普通」を「フツウ」という表記にした講演会を聴きに行った。

「普通の幸せ」

 こうした話を無料で聞ける機会が、それも土曜日に開催されるのはありがたいと思いながら、出かけて内容は興味深く、質疑応答の時間も比較的、長くとってくれた。

 講演を聴いていて、もし時間があったら聞いてみたいことがあったのだけど、その前に男性が質問のような、意見のような言葉に対して、早口で、しかも本当に有無を言わせないほどの「正しさ」で講師が言葉を次々と並べていったことに凄みを感じていたものの、そのことで時間はいっぱいになり、自分は質問ができなかった。

 いつも、こういう時は、遠慮しないで、聴きたいことはすぐに聞いた方がいいのかもと思いながらも、次に機会があったら聞きたかったのは、「フツウ」についてのことだった。

 以前は、「普通」というのは、達成がそれほど難しくない基準だったはずだけど、今は「普通」というのは、人によって、世代によって、その基準が大きく変わってしまい、場合によっては、とても難しい課題を突きつけられているように感じるようになっているのですが、どう思われますか?

 この質問を聴きたかったのは、すでに5年ほど前になってしまったけれど、今は「普通」という言葉は使い方やタイミングによっては、難しい課題を超えて、「攻撃性」が高いだけではなく、「暴力性」まで発揮するような言葉になってしまった気がする。

 それが、この5年の間の変化の一つだとも思っている。

価値観の違い

 以前、ちょうど今の親子間で、本当の意味での「ジェネレーションギャップ」が存在しているのではないか、と考えた。 

 それは、経済だけでなく、社会全体が「右肩上がり」になる思想で生きてきて、これからも生きていくはず(と信じている)の親の世代と、生まれた時から「右肩下がり」の中で生きざるを得ない世代では、全く価値観が違って、さらには、子ども世代の方が、未来に対しては適応している思想だと思われる。

 それは、価値観の違い、といった相対的な気配のする言葉よりは、ほとんど思想の対立といった、もっと深刻な違いのように思う。

「普通」という言葉

 ドラマというフィクションの世界でも、実際のノンフィクションの生活でも、おそらくは親から子へ伝えられる言葉として「普通に暮らしてくれればいい」は、一度くらいは聞いたことがあると思う。そして「人並み」という表現よりも「普通」の方が、多く使われている印象がある。

 ただ、特にここ何年かは、その言葉が聞こえてくると、勝手にちょっと気持ちが構えてしまうのは、その「普通」は、相手にとっては、とても「暴力的」に響いている可能性がある。それは、「普通」という表現は、世代や人によって、かなり違う状態を指していると思っているせいだ。

 特に伝えた側は、せめて、といった最低限の希望として伝えているけれど、伝えられた側にとって、実現不可能な課題であったら、それは、絶望につながってしまうと思う

「サザエさん一家」

 長い間、「普通」の象徴は、「サザエさん一家」と言われていた。

 近年になって、こうした分析↑もされるようになったものの、それでもおそらくは、特に連載当初の「サザエさん一家」は、「普通」の象徴だったはずで、だから、漫画からアニメになって、それも「国民的」という形容がされるようになったのだと思う。

 ただ、今は、あの家は「普通」ではなく、どちらかといえば「少数派」になっている。核家族化が進んだ現在では、サザエさん一家のような玄関のドアも一緒の「三世代同居」は、かなり珍しい存在になった。さらに、登場する女性が専業主婦ばかりなのも、現在では不自然なことと言ってもいい。

 だから、「サザエさん一家」は、この姿を基準にされることは、人によっては、ある種の「呪い」のように見えてもおかしくない。

 これが時代の変化なのだと思う。

「クレヨンしんちゃん」の父

しんのすけの父。
安月給のサラリーマン。のんびり屋でビールが大好き。しんのすけのお姉さん好きは、この人ゆずり。足がくさいのが特ちょう!?

「クレヨンしんちゃん」が最初に、漫画として連載が始まったときは、1990年代初頭のはずだから、まだバブルの気配が続いていて、「安月給のサラリーマン」は、「普通」というよりは、読者にとっては、少し下のようにも思えて、安心できる存在として描かれていた印象があるし、最初は、「週刊アクション」という青年コミック誌に連載されていた。

 だけど、連載が長く続き、アニメ化もされ、映画にまでなり、21世紀になる頃には、「クレヨンしんちゃん」が「国民的アニメ」に成長する中で、「クレヨンしんちゃんの父」への見方は変わっていた。

 埼玉県春日部市という首都圏に一戸建てを持ち、妻が専業主婦で、子供2人を養える。それは、すごいのではないか。そんな見られ方をされるようになっていた。

 変わったのは、「クレヨンしんちゃんの父」ではなく社会だった。バブルの頃は、「普通より少し下」のような存在と設定されていたはずだったのに、社会全体が沈むことによって「クレヨンしんちゃんの父」が浮上して見えているのだと思う。

 それだけ、日本は貧しくなった。

「普通」の変化

なんと、30年前のほうが平均給与は約37万円も高かったのです!

 この記事↑自体は、投資をすすめる目的はあるとしても、2020年代と、1990年代を比較して、今がどれだけ経済的に生活が苦しくなった話を書いている。

 そして、すでに「常識」になりつつあるのだけど、確かに「クレヨンしんちゃん」の連載が始まってからの30年ほど、日本の平均賃金が上がっていない。それは、国民総生産では、中国に抜かれたものの、世界では第3位で、ドイツやイギリスより上なのに、平均給与は下になっている。

 こうなると、国の政策という大きな流れも関係しているはずだから、個人的な努力ではどうしようもない部分も増え、より無力感も強くなる。

  さらに、平均給与が上がらないこととも、関係してくるのだけど、正規雇用と非正規雇用の割合も大きく変化している。

 この記事↑は、社労士の方がいろいろなデータを使い、丁寧に書いてくれているのだけど、この中の統計だと、1989年の正規雇用80・9%。非正規雇用19・1%だったのが、2020年には、正規雇用62・8%。非正規雇用37・2%になっている。

 30年前は、正規雇用が8割であれば、正社員は「普通」と言えたかもしれないけれど、6割になり、さらに減少する可能性もあるのであれば、正規雇用自体が「普通」とは言えなくなっていると思う。

(正規と非正規という表現も、そろそろ考え直す時に来ていると思うけれど)

親の世代の「普通」と、子どもの世代の「普通」

 約30年前に結婚し、子どもを持ち、それこそ「クレヨンしんちゃん一家」のような家庭を持つことは、本人たちが望めば可能であった「普通」かもしれなかったけれど、その子どもたちが成長し30代前後になった現在の社会状況では、その「普通」はすでに、特別という意味で「少数派」になってしまったのだと思う。

 ただ、親の世代は、その「普通」は、もしかしたら最低限の気持ちで、せめて「クレヨンしんちゃん一家」くらい、という見方のままかもしれないけれど、気がつけば、この30年で沈み続けている日本という社会では、「サザエさん一家」だけではなく「クレヨンしんちゃん一家」も、相対的に上がっていってしまったはずだ。

 その基準で「普通」を語られるとすれば、子ども世代としては、そんなどれだけ頑張っても手に入らない基準「普通」とされてしまえば、それは、「暴力的」に感じても不思議はないと思う。

 そして、その社会にしてしまったのは、親世代にも責任があるのだから、その世代の発する「普通」は、より複雑な意味を持ってしまうかもしれない。

「普通」に関する言葉

 私には子どももいないし、この30年のうち19年間はほぼ親の介護だけをしていて、その上で、社会的に無力で、何もできていない責任はあるから、他人事のように語れないけれど、今も、おそらくは、こんな言葉が、親世代から子ども世代の誰かにかけられていると想像する。


 すごく大きな望みをかけているわけじゃない。
 ごく「普通」に暮らすことを願っているだけなんだ。

 正社員になって、そのうちに結婚して、できたら孫の顔も見せてほしい。

 二人くらい子どもを持つのが、「普通」だと思う。

 そのうちに子どもの教育もあるから、できたら、小さくていいから家を建ててもらえたら、安心できるんだけど。

 ただ、「普通」に幸せになってほしいだけ。


 確かに、30年前は多数派という意味で、「普通」だったかもしれないが、日本全体が沈むことによって、この「普通」は浮上して、みんなが手が届くものではなくなった。

 そして、こうした言葉が、善意から発せられとしても、時には「暴力的」に響く可能性があることは、考えてもいいのではないかと思っている。



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