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「正直者はバカをみる」は、今も、本当に正しいのだろうか?

 何かを考えるとき、きっかけになるのがテレビが多いような気もするけれど、今回もドラマを見ていて、思ったことだった。

 このドラマに出演する俳優が、自身の理由で出演辞退したことが話題になっていたけれど、すでに撮影もしていたから、どうするのだろうといった、かなり下品な興味もあって見始めた。

 不動産屋のトップセールスで「ライアー」と言われるほど「ウソも方便」として駆使してきた営業職の主人公が、あることから「ウソがつけない」人間になってしまうというドラマで、思った以上に笑えるし、いろいろと考えたりもできた。

 おそらくは最終的には「正直」でありながら成果も出すのだろうし、できたら、そうなってほしいと思いながら見ている自分に気がついた。

 つまり、「正直者がバカを見ない」ことを望んでいたのだった。

正直者はバカをみる

【正直】 何かを隠して言わなかったり、うそ・ごまかしを言ったりすることが(出来)ない(様子)

「正直者がバカをみる」。

 この言葉のイメージは、自分もそうだけど、なんとなく共通している。誰か、だまそうとする人間の言うことをなんでもバカ「正直」に信じてしまい、結果的に損をする。

 冒頭のドラマだと、「正直なだけで、不動産の営業ができるか」といった言葉が言われるが、それは、フィクションだけでなく、たとえば会社などで生きていくときにも、「正直者はバカをみる」といったニュアンスは、かなり聞いた気がする。

 ただ、これは、また細かい話なのかもしれないが、辞書的な意味で言うと「うそをつけない」といった本人の姿勢を示すのが「正直」という言葉のようで、ここには、私も含めて一般的なイメージでもある「だまされる」といったニュアンスは含まれていない。

 だから、実は、「正直」に勝手にイメージしている「相手の言うことをなんでも信じる」は、「正直」とは直接関係がないようだ。

 だから本当は、「正直者はバカをみる」のではなく、「愚か者はバカをみる」というシンプルな話に過ぎないのに、どうして「正直」ということに対して、下に見るような、攻撃的なニュアンスを含ませているのだろうか。

うそをつくことをしない、のではなく、できない

 辞書を引いて、改めて気がついたのは、「正直」というのは、「何かを隠して言わなかったり、うそ・ごまかしを言ったりすることが(出来)ない(様子)」と書かれていて、「うそ・ごまかしを言ったりすることをしない」のではなく、「できない」とされていることだった。

 うそを言ったりすることだけではなく、何かを隠すことも出来ないのであれば、それは、意志とは関係なく、その人の体質で、それが徹底されていて、しかも、そのことで、「私は正直者だから偉い」といった気配もなく、ただ自分のあり方で「嘘をつけない」としたら、それは、ほとんど「天使」のようなものだと思う。

 本当にいたら、その人は、たぶん、まぶしい存在ではないだろうか。

嫉妬のような気持ち

 そんな存在に対しては、人によっては、もしくは気持ちのコンディションによっては、なんだかイライラする可能性もある。

 どうして、そんなに正直でいられるのか

 そんな「天使」みたいな人に対して、自分では気がつかなくても、嫉妬心はたやすく生まれてしまいがちだと思う。

正直であること。大人になればなるほど難しくなる。一般的にはそう言われている。しかし、実は「大人になればなるほど」が問題ではない。
 問題は、学校や会社などの「同調圧力」のある組織にいるときこそ、正直筋は歪められるのではないか。つまり、多様な価値を尊重しない、できない組織だ。(組織といっててもそれは家庭から学校、会社、さらには街や国までも含むものだろう)そうして「正直筋」が究極まで弱められ、気付いたら自分にも虚構の「組織」側の価値がインストールされる。
 こうして日常が色を失い始める。自分の中に宿っていた「価値」が気づいたら薄れていく。某大企業に勤めていた友人が、顧客にサービスを売るためには法を犯すこともザラといっていた。会社員の「非人間化」の究極の形態だ。

 こうした中で生きていくしかない場合も少なくないはずだ。

 生活のために、会社の方針に逆らうことも出来にくい。そんな状況の中で、「ウソをつけない」体質の人を見て、その姿が、もし「ウソをつかなく」ても楽しそうに生きていたとすれば、なんだか、やっていられない気持ちになるかもしれない。

 そんなとき、黒い願いとして発せられてしまいそうな言葉が「正直者はバカをみる」かもしれないし、社会全体のブラック化が進んでいる現代であれば、もしかしたら、今後は「正直者はバカをみろ!」になっていく可能性すらある。

自分に正直に生きたい

 ただ、「本当のことしか言えない」という体質の人とは別に、「正直に生きたい」と言う人はいて、その場合に受ける印象は、また違ってくる。 

 この著者↓が、この書籍↑の「正直に生きたい」に触れている部分について、きちんとまとめて分析してくれている。

 井上ひさしの元妻である西舘好子が自分の不倫について語った「自分に正直に生きたい」という発言と、糸井重里が不倫発覚のときに言った「自分の好きなように生きる」という発言を比較したもの。
 西舘好子が不倫と言う社会規範に反することをしながら、「正直」という社会規範におもねる言葉を使っている。糸井の言葉に比べてその人の鈍感さと自堕落さが表れているというのだ。
「自分に正直に生きる」も「自分の好きなように生きる」も同じ意味のことをいっているように見えて、発言者の主体性に対する厳しさ、すなわち覚悟の違いが如実に表れる。

 どちらも「不倫会見」での発言なのだけど、「好きに生きる」は非難を受けたとしてもそうする、という意志と覚悟があるのだけど、「自分に正直に生きたい」は、社会規範に反する不倫をしながらも、正直という社会的にプラス評価に寄りかかろうとしている姿勢が、批判の対象になっている。


 それこそ、正直言って、この「バカにつける薬」を読んだあとは、あらゆる場面で発せられる「自分に正直に生きたい」が気になってしまい、その発言をする人に対して、疑念を持つようになってしまった。

「正直」にはふた通りある

 そう考えると、「正直者」にも、少なくとも、実はふた通りあることに気づく。

 正直にしか生きられない人と、正直だと評価されたい人

 前者は、社会の評価と関係なく、そうとしか生きられないから、それで、確かに損をすることはあるかもしれない。だけど一方で、後者のように「正直」という評価をされることによって得をしようと思う人もいるから、「正直者はバカをみる」というのは、実は、後者のような「正直だと評価されて得をしたい人」を指していて、単純な損得の問題ではなく、実は、もっと本質的な愚かさを表した言葉かもしれない、とも思う。

 そういう場合は、「正直者はバカをみる」は本当のことになるのだろう。

 そして、もう少し付け加えるのならば、「正直」に思われたい。そのことで、少なくともよく思われたいだけで、「正直であること」付随する困難も含めて引き受ける覚悟のない場合、「バカ正直」と呼ぶのかもしれない。

Integrity

 実は、そうした点に関して、前出したブログの筆者も、こうしたことを書いている。

 Integrityの訳は、「整合性・完全性・統合性・高潔・品位」などいろいろあるが、ピーター・ドラッカーの翻訳では「真摯さ」と表現される。
 ただバカ「正直」であれば良いというわけではなく、そこに倫理的な道義が加わった状態、つまり筋が通った「誠実さ」ともいえる。自分の中に本来的に備わっている価値と行動が首尾一貫している状態といえよう。

 このIntegrityが、実は本来の「正直」と近いのではないだろうか。

「正直」が、「何かを隠して言わなかったり、うそ・ごまかしを言ったりすることが(出来)ない(様子)」というのが本来の意味とすれば、それは、自分の意志といったような個人的なことだけではく、「ウソがつけない」のだから、大げさな言い方をすれば、「何かもっと大きな意志」のようのものに従っているだけなのかもしれない。

 それはスピリチュアルな意味合いではなく、人類が存続していくためには「正直」という徳不可欠ということを表している可能性がある。

最大の戦略は正直であること

「正直」には、現代ではどうしても「愚か」、もしくは「偽善」という価値観が押し付けられそうになるが、それが間違っていることを、すでに指摘している人もいた。

 「最大の戦略は正直であること」は、社会心理学者・山岸俊男氏の書籍で知ったことだけれど、それは、意外でありながらも、どこか有難いと思えることだった。

 そのことを、のちの時代の人が、こうした書き方と要約と分析↓をしている。(孫引きになってしまいますが、分かりやすくまとめているので、引用させてもらいます)。

 各種統計機関が行った意識調査や山岸研究室が独自に実施した行動実験の結果からは、日本人は欧米人に比較して「他人への信頼感が低く」、実際の行動場面でも「他人を信頼しない」という結果が表出するそうです。
 日本人が資質として他人を信用しやすく、他者のことを配慮して行動するという常識は誤りで、逆に、日本人は資質としては疑い深く、自己中心的な人間であると言えるそうです。

 この視点からは、「正直者はバカをみる」は別の意味合いもあることに気がつく。

「疑い深く、自己中心的」であるのが多数派であれば、「嘘を言えない正直者」は、ある意味では「よそ者」だから、排除されてもバカにされてもいい、というニュアンスもあったのかもしれない。

 では、「日本は信頼社会」という常識はなぜ存在してきたのか。
山岸先生は、その理由を「信頼社会」と「安心社会」の違いを理解することで説明できると言います。
「信頼」と「安心」は似て非なるもので、まったく異なる概念だそうです。
「信頼」とは、たとえリスクがあっても、相手を信じること。
「安心」とは、リスクがないから、相手を信じること。
「信頼」とは、相手が自分と良好な関係を築きたいと願っていることを前提にしているのに対して、「安心」とは、自分を裏切ると相手自身が損をするから大丈夫と考えているという違いがあります。
従って「安心社会」とは、リスクを排除する仕組み(裏切ると痛い目に合う仕組み)を組み込んだ社会ということになります。

 そうであれば、「安心社会」は、身内以外には気を許してはいけない、といったことにもなりかねないから、そのことを言い聞かせるためにも、(身内以外に)「正直者はバカをみる」が言われていた可能性も考えると、それは、一種の呪いの言葉のようにも感じられる。

 社会全体が肥大化・複雑化し、グローバルに開かれてくると、「安心社会」を続けたままでは、機会コストはどんどん高くなり、また関係固定化のための取引コストも逓増していくでしょう。非合理性が高まってしまいます。
 現在の日本が直面しているのが、この状態で、「安心社会」から「信頼社会」への転換を迫られているというのが、山岸先生の認識です。
 ではどうすれば「信頼社会」を構築できるのでしょうか。
 山岸先生は、「まず人を信じること、正直になること、嘘をつかないこと」という大原則を確認したうえで、二つの方向性を示唆しています。
 ひとつは個人の能力を高めることです。
 もうひとつは、信頼し合える仕組みを作ることです。
 山岸先生が行った実験の結果からは、出来るだけ情報を公開し、情報流通を促進することで信頼度合いが高まることが言えるそうです。特にポジティブ評判が流通する仕組みの構築がポイントになるとのこと。

 時代が進み、変化することで、ようやく「正直」であることの意味の重要性が、冷静に再検討されるのだと思う。

ウソをついちゃいけない

 この深夜番組の中で、表現に関して、とても深いところにも届く言葉が交わされていた。(2022.4.16深夜「腐り芸人オーディション」)
(番組を見て、書いたので、詳細は違っていたら、すみません)

 面白くしようとする前に、ウソをついちゃいけない。ウソがあると、言葉に説得力がなくなる。それに、ウソというのは絶対にほころびが出る。

「ウソをついちゃいけない」ということを、一見、ウソと親和性が高そうな芸人の世界で言われているということは、実は、伝えるときに、「正直」であることの高い価値も、知っているためだと思った。

(それは、最近、「ピュア芸人」という言い方で、面白さだけではなく、「正直」ということの貴重さに注目する、という形で現れているような気がする)。


「ウソをつかないこと」が、これからの社会でより重要になることは、社会心理学者の山岸氏がすでに指摘しているのだから、実は時代にもあっているし、「ウソをついちゃいけない」という覚悟の積み重ねの中で、「本当の正直者」に限りなく近づいていくのだと思う。

 そういう存在が「(当の正直)」として生き残っていけば、「正直」であることの価値が再評価され、その時になれば、「正直者はバカをみる」という言葉は、今とは違った見られ方をされているか、もしくは、この言葉が使われる頻度が圧倒的に少なくなっていく可能性もある。

 個人的には、そんな方向に時代が進むと想像した方が、なんだか明るい気持ちにはなれる。




(他にも、いろいろと書いています↓。よろしかったら、読んでもらえたら、うれしいです)。





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