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読書感想 『オッサンの壁』  「男性の必読書」

 ラジオで話している声を聞いた。
 柔らかい印象で、丁寧に伝えようとしていると思った。
 
 その女性は、「全国紙初の女性政治部長」になった人で、そこで話されていることも、自分が知らないばかりではないかという感触があり、その著書を読んだ。

 本当に貴重な記録だった。そして、女性が日本社会で働いていくことで、これだけ大変な思いをしていることを、本当の意味で知らなかったし、何も出来ていなかったから、自分も「オッサン社会」に加担していたのだと思った。

 男性の自分は、女性の視点は持てないが、とても正確に「オッサン社会」のおぞましさが描かれていると感じた。

「オッサンの壁」  佐藤千矢子 

 本の帯には、こんな言葉が並んでいる。

 日本一の「オッサン村」
 永田町の非常識
 政治メディアの実態

 これだけを拾ってしまうと、「永田町」にいない男性は、自分とは縁が薄そうな印象を抱いてしまうかもしれないが、この著書での「オッサン」は、こんなふうに定義されている。

 私が思うに「オッサン」とは、男性優位に設計された社会で、その居心地の良さに安住し、その陰で、生きづらさや不自由や矛盾や悔しさを感じている少数派の人たちの気持ちや環境に思いが至らない人たちのことだ。いや、わかっていて、あえて気づかないふり、見て見ぬふりをしているのかもしれない。男性が下駄をはかせてもらえる今の社会を変えたくない、既得権を手放したくないからではないだろうか。
 男性優位がデフォルト(あらかじめ設定された標準の状態)の社会で、そうした社会に対する現状維持を意識的にも無意識的のうちにも望むあまりに、想像力欠乏症に陥っている。そんな状態や人たちを私は「オッサン」と呼びたい。だから当然、男性でもオッサンではない人たちは大勢いるし、女性の中にもオッサンになっている人たちはいる。

 言葉を定義するときに、もっと短くすべきという批判もされそうだが、著書を読んでいると、出会ってきた男性たちの様々な「オッサン性」をきちんと表現したいという、怒りのようなものが底にあるのだと思うようになる。だから、描写が正確で丁寧になり、長めの表現になる。

想像力の不足

 もちろん、自分自身も、この「定義」を読んだら、こういう人間ではいたくないとは思うものの、振り返ると、特に若い頃の方が「オッサン」に近かったと思う。

 そして、読者としての私なりに「オッサン」度数を測るとすれば、特に、女性の大変さを誰かが語ると、「男性だって、大変なんだ」と反射的に思ってしまう場合は、「オッサン」の度合いが高いと言ってもいいのではないだろうか。それは、自分や自分達以外への「想像力」を働かせようとしていないからだし、だから、著者が、この本を出版することへのためらいも、理解できないかもしれない。

 女性が抱える問題について、学者・研究者の著書は多くても、働く女性の視点から書かれたものは、比較的少ないように思う。この分野には、多くの問題があるものの、それを公表した途端、会社、ひいては社会からはじき出されかねないーーそんな懸念があるからではないか。私も10年前ならこの本を書くのを躊躇したかもしれない。そろそろ定年が見えてきた今だから「あとは残りの人生、何とかなるだろう」と踏み切れた面もある。

 実績を重ねた人でさえ、21世紀の今でも、女性というだけで、こんな思いをさせてしまうような社会であるのは、やっぱり恥ずかしいことだと思う。

日常的な差別

 女性であるだけで受けている差別。それは、選挙権すらなかった戦前と比べたら、目に見える部分は少なくなった可能性がある。

 ただ、マスメディアという「オッサン度数」の高い世界で長年生きてきた著者の視点から、一見、わかりにくいけれど、根深い差別があって、それについて丁寧な描写がされているのは、私も含めて「男性」にも伝えようとする意志の強さがあるせいだと思う。

 取材先で女性記者であることを理由に応じてもらえなかったり、嫌な思いをしたりした記憶はほとんどないが、電話取材ではそれが頻繁に起きた。
 支局で「毎日新聞です」と電話に出ると、「誰かいないの?」「誰かに代わってくれる?」と言われる。支局長やデスクに代わってくれではなく「誰か」である。「誰かって誰?」といつも心の中でつぶやいていた。 
 会社にかかってきた電話に出て「誰かいないの?」と言われた経験のある女性は、私たちの世代では、新聞記者に限らずけっこう多いのではないか。片や男性はそんな経験はほとんどないだろう。一時が万事で、こういう経験を何十年も我慢して重ねてきた女性と、一切そういう苦労をしないですんだ男性の間には、その後の人生への自信の持ち方や、社会に対する認識に大きな違いが生まれるのではないかと思う。 

メディア業界の「セクシャル・ハラスメント」

 読み進むと、あらゆる場所で、あらゆる機会に、こんなに差別が張り巡らされているのかと思い、もちろん他人事ではなかったはずだけど、そのことを知らなかったし、当事者でないと見えないことが多いのも改めて知った。

 セクハラは地方勤務でもよく起きる。地方勤務の女性記者がセクハラを受けた相手としてよく聞くのは、警察官だ。私の場合、警察官からの深刻なセクハラはなかったが、消防署の職員はあった。長野支局時代、警察取材の一環で消防署も回っていた。職員と仲良くなり、夕食をともにした帰りの車の中で、職員は運転していた車を止めて、いきなりキスしようとしてきた。「やめてください、やめてください」と制止し、何とか制止し、何とか運転に戻ってもらって帰ってきたことがある。この時は、先輩にも上司にも一切、報告しなかった。というよりも、できなかった。まだ地方支局勤務の新人記者で、入社早々トラブルを起こせば、「女はやっぱり面倒くさい」とか「なんでそんなトラブルもうまく処理できないのか」と思われ、人事異動にも影響しかねないと考えたからだ。セクハラ経験のある人にはわかってもらえると思うが、報告をすること自体が残念ながら大きなハードルだった。

 この報告すらできない空気に関しては、やはり覚えもあるし、知らないうちに加担していた可能性も高い。小さいトラブルはなんとか処理しろ、ということなのかもしれないが、セクハラとパワハラと女性蔑視が、ここにあるのだと思う。

 それは、とても日常的なこととつながっているのも指摘されている。

 「女はいいな。女というだけでスクープがとれる。俺なんか今の政治家をもう1年も担当しているのに、まだ名前を覚えられていない」「男は女に甘い。特に政治家はそうだから、女性記者は得だ」「女性記者は下駄をはかせてもらっているようなもの」
 こんなぼやきを、何度となく聞いてきた。男性は自分たちが生まれた時から下駄をはかせてもらっているとは思いもしないようだ。
 こうした発想から来るのだろうか。民放テレビ局の政治部が、有力政治家の担当に女性記者を積極的につけるようになって言った。政治家から「僕の番記者は女性記者にしてね」と求められることもある。(中略)
 確かに女性記者は、良くも悪くも目立つ。だが目立って得することもあれば、損することもあるのだ。名前と顔をすぐに覚えられる反面、失敗も目立つ。揚げ足を取られやすいし、足をすくわれやすい。損得勘定で言ったら、圧倒的に損が勝っていると思う。それは新聞記者に限らず、他の業界でも同様ではないだろうか。
 しかも、女性記者だから情報を流すという政治家や政府高官は、そもそも記者と真面目に付き合おうと思っていないのだろう。適当に当たり障りのない情報を提供し、満足させて、利用する。そういう関係ならば、男性記者よりも女性記者のほうがいいということではないか。そんな政治家とは早めにおさらばしたほうがいい。
 2018年7月にテレビ朝日の女性記者が、財務省の福田淳一事務次官からセクシャル・ハラスメントを受けていたことを週刊誌で告発し、大問題になったのは、こうした背景と無縁ではないだろう。 

 ここまで引用ばかりで、しかも、長めに引用しているのだけど、そうでないと、どんな「壁」であることが分かりにくいし、そして、ここまで紹介したことも、この著書の中では「壁」の一部でしかない。

おすすめしたい人

 私はこの本を女性はもちろんだが、「オッサン」に読んでもらいたいと思っている。女性の生きづらさは、男性の問題でもある。女性が生きづらい社会は、男性だって肩肘張っているが本当は生きづらい社会なのではないか。

 著者自身に、この思いがあるように、特に男性の方は、読んだ方がいいと思います。私もそうでしたが、どれだけ知らなかったかを知ること、からしか始められないように思います。

 特に、これからの時代に生きていこうとするのであれば、必読書と言えるほど、丁寧で親切な「男性中心社会のおかしさ」についての本だと思います。



(他にもいろいろと書いています↓。よろしかったら、読んでもらえたら、うれしいです)。



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