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読書感想 『首里の馬』 高山羽根子 「有用性の向こう側」

 芥川賞と直木賞の予想と、その選考結果について書評家の2人が話し合うラジオ番組があって、それは、とても率直で、取り上げられた小説を読みたくなるような話が繰り広げられていて、ここ数年聞くようになった。

 文学という世界から見たら、自分のしていることは、にわかファンみたいな行動なのだと思うし、読みたくなる、といっても、そんなに全部は読めないし、作品によっては、ラジオで聞いていた時のほうが面白いこともあった。

 とても遅いとは思うのだけど、小説を語ることも、当然だけど、それは一つの作品だと思えるようになった。

ラジオ出演

 そのラジオ放送に、受賞者本人が出演することがあった。
 2020年のコロナ禍での芥川賞は、2人が同時に受賞をして、記者会見などの話を聞くと、平成生まれの男性の方が、注目をあびやすい言動だったのだけど、ラジオに出演したのは、もう一人の女性の作家だった。

 3年連続3回目の候補になっての受賞だし、当然、喜びも強いだろうし、ホッともしたはずだけど、その語り口が、聞き手としてどこまで理解しているのか分からないけど、主張や癖が強いわけでもなく、前へ、前へ、という感じでもなく、かといって殻を閉ざしたように守りが固いようにも思えず、すごく自然に思え、年齢も分かりにくく、高齢者とも思えるような落ち着きもあったのだけど、プロフィールを見たら、40代だった。

 作品の話だけでなく、本人も、何かを意図的に隠しているように思えないし、自然に振る舞っているのに、でも、すぐには分かりにくい凄さがあるような気がする。

 作者の高山羽根子氏への、ラジオリスナーとしての印象は、そういうものだった。

『首里の馬』  高山羽根子

 すでに単行本になっていたのだけど、最初に掲載された文芸誌で、久しぶりに小説を読んだ。当たり前だけど、雑誌なので、さわった感じも柔らかく、読んで、そのあたりに置くと、部屋が雑然としているせいで、どこかにまぎれてしまいそうだった。寝る前に少し読んで、本棚に戻して、また次の日に読むということを繰り返して、読み切ったけど、そういう読み方をした小説も、個人的には久しぶりだった。

 そんなに強烈な違和感があるわけではない。
 舞台は沖縄だけど、ずっと台風の季節のせいなのか、強い太陽とか、いわゆる「沖縄」のイメージが迫ってくるわけでもない。
 それでも、雑誌を手にとって読み始めると、強引に巻き込まれるわけではないし、日常から、小説の世界への距離は比較的近いけれど、家の引き戸をあけて、鴨居をまたぐように、確かに違う場所へ入る感覚はある。

 正しい読み方というのがあるとは思わないし、中年になってから読書の習慣がついたような未熟な読み手でもあるので、今回の読み方が、より正しいのかも分からない。だけど、毎日少しずつ読んで、その微妙に違う世界に行って、読み終えてから眠る、という日々は、気持ちがよかった。

 確かにいろいろな思いになった。その揺れ方は、もちろん日常ではあまり味わえないものであるけれど、それほど激しくなかったせいか、たぶん、ジョギングなどをすると、内臓が揺れて整う、というようなことと似ていて、少し読んで、気持ちが少し揺れて、そのことで逆に落ち着いて、眠れたのだと思う。

微妙な違和感と孤独

 主人公は、未名子だから、まだ名前になっていないような、たぶん、現実には存在しにくいような名前で、そこにすでに微妙な違和感はある。(「吾輩は猫である」のようだ)。そして、主人公にとって重要な人物は順(より)であり、ヴァンダだったり、ギバノなので、そこに、非日常感は確かにある。(日常側にいる上司は、カンベさんと表現され、漢字すらも与えられていない)。

 さらには、個人が運営している資料館や、クイズに関わる仕事、突然あらわれる動物など、冷静に考えたら、ありえないような設定ばかりで組み立てられているのだけど、読んでいると、それは普通にあることのように自然に控えめに登場するので、小説の世界を構成する要素として、読者として飲み込みやすい。

 だから、少しずつでも読み進めていくと、そのたびに、この世界に静かにお邪魔させてもらって、しばらくたたずむようにいさせてもらって、それが短い時間でも、読んでいる間はおなじみの場所になり、そこは不思議に心地よかった。だけど、微妙な緊張感もあったので、そこに読みとどまるだけでなく、少しずつ読み進められたのだと思う。


 さらに、これは、文中でも、触れられていたのだけど、ここにいる人たちは、孤独な人ばかり(動物でさえ)だと思う。

 その孤独な人たちが、距離があったとしても気持ちはつながる、みたいなことも描かれているから、それは、コロナ禍の今の時代のようでもあるけれど、そのつながりは、共感をベースとして、距離感を縮めるだけの関係性ではないから、それも読んでいて、気持ちがいい部分だと気がついた。

有用性の向こう側

 個人が運営する資料館に、主人公(この小説だと、この名称が微妙になじまないが)が、出入りして手伝うようになったのは、まだ中学生の頃だった。それも、「あまり人づきあいが得意でなく学校を休みがち」だったせいもあり、県内の別の場所から引っ越してきて、ここに来た頃だった。

 当時学校にも行かずにこの資料館のそばによるべなく立ち尽くしていた未名子に、館内に入ってもいいという許可をくれ、小さな人骨の欠片を見せ、掌に載せて触らせてくれたのだった。

 おそらく、学校だけでなく、これから先も社会になじめそうになかった主人公は、その後クイズの仕事で見知らぬ人たちとつながるのだけど、どの人も、同じように一般社会になじめそうもなく、その孤独の同質さで理解しあっているようにも思えるから、この「人骨」を触らせてくれた、資料館を個人で運営する順(より)さんも、中学生の未名子に、その孤独をみて、そして、その孤独を抱えている人は、あなただけじゃない、ということを伝えた瞬間かもしれなかった。

 その孤独さは、ただ人づきあいが苦手だったり、あまりにも高すぎるプライドで疎外感を覚えたり、ということではなく、大人になってクイズの仕事(これも、この言葉で浮かぶイメージと、随分と違うのだけど)への馴染みかたを見ても、それは、ただ自分の興味だけの、「世の中を、もっと知りたい」という、ややこしい言い方でいえば「知へのどうしようもない業のような情熱」を持っているがゆえの、孤独ということではないだろうか。

 それは、新自由主義やグローバル化が進む現代では、もしかしたら迫害されかねないような資質であり、本人ではどうしようもないことでもあり、その上、それは、役に立つことばかりが重要である現代では、必然的に孤立してしまう。

  こういう人たちは、ある側面から見たら、理解できにくいから、たぶん、こわい。

 資料館を運営する順(より)さんの娘である途(みち)さんは、母親への反発もあるかもしれないが、そうした孤独の質を持っている人たちを恐れてきた。途さんは、「知の力」を、役に立つように歯科医になり生かしているのだから、自分の中にもある「有用性の向こう側への情熱」を刺激されそうで、だから、そういう人たちを、母親も含めて遠ざけようとしてきたのは、ある意味、当然かもしれない、とも思えてくる。(母と娘で、よりみちになっている)。

 そして、その孤独な情熱は、隠居的な外見と違って、が恐れていたように、時として過激な行動にも結びつくことを証明するように、未名子も、そうした行動をとることになる。


 密かな「事件」は起こるけれど、「有用性への対抗や反発」というよりは、「有用性が及ばない場所」の、基本的には静かな話でもあると思った。だから、読んでいる時は、心地よかったのかもしれない。




(他にもいろいろと書いています↓。読んでいただければ、うれしく思います)。


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