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読書感想 『「日本」ってどんな国?国際比較データで社会が見えてくる』 「現実を把握する必要性」

 20世紀の末に、ぼんやりと考えていたのは、世の中はもっと変わっていくのは間違いない。だから、できたら、少しでも、誰もが生きやすく、暮らしやすい社会になればいいのにな、と思っていたのは、自分自身が、社会的にも個人的にも強い人間でなかったせいもあった。

 だけど気がついたら、21世紀になって20年以上が経って、思った以上に変わっていないと感じていたら、どうやら、それは感覚的なものだけではなく実際に変化していないようだった。

 道を歩いている小学生は、今もランドセルを背負っている。

 うちの近所にある高校に通う学生の姿も、それほど変わっていないように見えるし、時々、朝に「早くしろ」という拡声器を通した大きな声が聞こえてきて、それは、遅刻をしないように「指導」する教師の方の声のようだった。

 社会自体が、どんな人でも伸び伸びできるような環境になっていないのに、それよりも強い調子で、厳しい状態の人にでも浴びせられる「甘やかしちゃいけない」という言葉は、何十年前と同様に、よく耳にするし、目にしている。

 もしかしたら、本当にほとんど変わっていないのかもしれない。

 そんなことを、改めて、この書籍を読んで確認できた気がする。


『「日本」ってどんな国? 国際比較データで社会が見えてくる』 本田由紀

 著者は、教育社会学の研究者で、東京大学大学院の教授をつとめている。ということは、おそらくは良質なデータも集めやすい環境にいるはずだと思うし、そのことを生かして執筆したはずだ。

 さらには年齢もある程度以上、高くなっていれば、歴史的な視点も、より分かりやすく、自分に関係が深いこととして語ることもできるように思う。

 そうした環境や能力や状況によって、例えば、日本では今も「スター」であり続けている福山雅治の「家族になろうよ」という曲に対しても、こうした違和感を明確に表明しているようだ。

 私にとっては、この曲の歌詞が、古臭い家族観や、男性と女性のステレオタイプにまみれたものであるように感じられるのです。

 メロディーと歌声と、その曲が使われる場面といった、さまざまな要素を除いて、その歌詞を改めて読むと、その内容を支える価値観は、確かに何十年とほとんど変わっていないのだけど、それを現代に合わせて、より洗練された形で表現しているのは、わかる。

 ただ、福山雅治が「スター」であり続けている理由の一つは、多くの人の望みに対して、おそらくは敏感である能力のはずで、そうであれば、この曲を提供している側は、現在の人々の気持ちを代弁していることを具体的な言葉としたはずで、それを証明するように、この楽曲は、ヒットしたし、今も結婚式で歌われている、とも聞いたことがある。

 つまり、それだけ、人々の価値観は変わらないことを示しているとも言えるのだけど、その一方で、主に経済的な社会状況は変わってきた。

結婚して子どもを産む、という、過去には「普通」とされてきた「家族」をつくることや、その維持さえも難しくなってきているということです。

日本の「美風」

 例えば、何年か前の政府の方針について、それが、実はかなり長い歴史を背景に持ち、しかも、ずっと変わらない価値観であるのを、とても明確に指摘しているが、それは、国際的な基準から見れば、「異端」であることを「美風」という表現にしているのかもしれない、ということまで考えが至る。

 かなり長いのだけど、ここ何十年かの「社会の価値観」について、とても分かりやすく述べられているので、引用する。

2020年9月14日に自民党総裁に選出されて首相の座に就いた菅義偉は、その決意表明において、「私が目指す社会像。それは自助、共助、公助、そして「絆」であります」と語りました。(中略)この言葉に対して、長引く新型コロナウイルス感染症の流行で疲弊していた日本社会では、批判が広がりました。それは当然です。ただし、このような発想は菅氏だけのものではなく、1955年に自由民主党が結成されて以来、政権を掌握し続けてきた長い長い期間における、ほぼ一貫した方針でした。

 自助、共助で何とかしろ、という考え方は、つまり「お上(政府)」に迷惑をかけずに個人や家族で稼いで生きろ、ということですが、それに留まらず、他の多くの先進諸国では公助すなわち国の政策や制度で保障されてきた事柄についても、個人や家族がしっかり担え、ということも含んでいます。1970年代後半から80年代にかけて自民党が掲げてきた「日本型福祉社会」とは、「福祉国家」であれば公的制度が担うはずの、高齢者や乳幼児、障害者、困窮者などへの生活保障とケア(世話)の提供を、日本では家族――具体的には女性―― が担っていることを意味していました。しかも、そのような国家の責任を、代わりに家族に押しつけていることを、日本の「美風」として称賛してさえいたのです。

 このような方向性は近年になっても続いています。それどころか、今世紀に入っていっそう強化されている面もあります。たとえば、2006年に新しく作り直された教育基本法では、「父母その他の保護者は、子の教育について第一義的責任を有するのであって、生活のために必要な習慣を身に付けさせるとともに、自立心を育成し、心身の調和のとれた発達を図るよう努めるものとする」という新しい条文が、第十条に追加されました。家族が子どもの教育に第一の責任を負うということが、法律に明記されたのです。

(『「日本」って、どんな国?』より)

 こうした「歴史」を振り返ると、時代というのは直線的に進むものではないし、放っておけば進歩するわけでもなく、政権与党の意向によって、時には逆方向に進んでいるとしか思えない時もあると、改めてわかってくる。

 しかも、その年月は、もうすぐ70年になるが、今のところ政権交代の気配もないので、まだ、この「変わらなさ」が続くのだと思うと、なんだか重い気持ちにもなる。

「国際比較データ」の意味

 引用した中で、こうした部分がある。

 自助、共助で何とかしろ、という考え方は、つまり「お上(政府)」に迷惑をかけずに個人や家族で稼いで生きろ、ということですが、それに留まらず、他の多くの先進諸国では公助すなわち国の政策や制度で保障されてきた事柄についても、個人や家族がしっかり担え、ということも含んでいます。

(『「日本」って、どんな国?』より)

 さまざまな社会的な状況が、本当に仕方がないのか。それとも、まだ努力や工夫の余地があるのか。その国に暮らす国民にとって、政策が与える影響は強く、だけど、他の国の状況を知らなければ、自分の国の政策が、適切かどうかは分からない。

 日本は、先進国首脳会議に参加している。今はG7と言われているから、現時点では「先進国」の中に入っているはずだ。しかも、経済的には、かなり下降線をたどっているとはいえ、GDPは世界で第3位。これは先進諸国の中でも、上位といっていいはずだ。

 それだけの経済力がありながら、という前提で、「他の多くの先進諸国では公助すなわち国の政策や制度で保障されてきた事柄についても、個人や家族がしっかり担え、ということも含んでいます」という日本の政府の方針は、他の「先進国」などの国際基準から見たら、「異端」であり、それは日本国民にとっては、生活や暮らしが苦しくなる方針だとも言える。

 このような「家族で支えろ」という政権のあり方は、「政府は助けないよ」ということと表裏一体であることは、すでに述べました。その「政府は助けないよ」という姿勢は、たとえば、政府が国民から集めた税金を、家族を支えるためにどれほど支出しているか、という指標に表れています。出産や育児に伴う給付、児童養育家庭に対する給付(児童手当等)、保育関係給付、支援の必要な児童の保護に要する費用、就学前教育費など、主に家族の子育てを支える施策として政府が支出する費用のことを「家族関係社会給付」といいますが、その支出額が各国のGDPに占める比率をOECDのデータベースで見ると、日本はかなり低い水準にあります。

(『「日本」って、どんな国?』より)

 OECD(経済協力開発機構)はヨーロッパ諸国を中心に日・米を含め38ヶ国の先進国が加盟する国際機関です。OECDは国際マクロ経済動向、貿易、開発援助といった分野に加え、最近では持続可能な開発、ガバナンスといった新たな分野についても加盟国間の分析・検討を行っています。

(「経済産業省」より)

 考えたら、税金は国民が払っている。あまりにも素朴な言い方になってしまうけれど、それを、国会が代表して使い方を決めているはずだ。そして、GDPが世界3位だから、経済的には、まだ上位にも関わらず、OECDは、先進国38カ国なのに、その中で、国民の生活に直接関係のある「家族関係社会給付」に税金を使っていない、ということになる。

 少し粗っぽい言い方になるのだけど、「お金がないから、必要なことに使えない」のではなく、「お金はあるけれど、そういう使い方はしたくない」になっているように思える。

 それは、国際基準に照らし合わせれば、国民の生活を助けるために税金を使っていない方針を採用しているということになるし、豊かな国民の暮らしという観点から見ると、「先進国にはふさわしくない」ということなり、もしかしたら、近い将来、G7からは脱落してしまうかもしれないようなことである、と思える。

 問題は経済的なことだけではなく、何を大事にするか?という優先事項に関することなのではないか、と思いが至る。

 こうしたことは、自国の都合だけで考えていると見えにくく、他の「先進国」である国々がどうしているのか、を比較することで初めて分かってくるのだと思う。だから、「国際比較データ」が意味を持ってくるのだろう。

 よく知られたことですが、日本の相対貧困率は約15%で、OECD平均を上回っています。(中略)しかも、どんなに苦しい状態であったとしても、誰にも助けを求めることができず、苦しみを家族の中だけで抱え込んでいるような場合が多いのです。こんな現状を放置してよいとはとても考えられません。

(『「日本」って、どんな国?』より)

「冷淡」と「不信」

 実は、日本がどんな国か?ということも、自国内だけでよりも、他の国々とのデータの比較で、明確になりやすい。それは、時としてあまりいい気持ちもしないけれど、現実をまず把握しないと、何も始まらないとは思う。

 2015年にアメリカの世論調査会社であるGallup社が世界140カ国で実施した「Global Civic Engagement 調査」には、「過去1か月の間に、助けを必要としている見知らぬ他人を助けましたか?」という質問が含まれています。これに「はい」と答えた比率は、日本では25%で、調査対象国140カ国中139位でした。

 このような様々なデータからは、日本の社会が他国と比べて、人への冷淡さや不信が強い国であることがわかります。日本の中では「絆」とか「団結」とかが称賛されることがしばしばありますが、社会の実態はそれらとはほど遠く、ばらばらに切り離され相互に警戒し合うような関係のほうが、広がってしまっていると言えます。

(『「日本」って、どんな国?』より)

 このことは、実感としては納得できる。

 自分のことを棚に上げ切るのはできないものの、とても個人的な経験で言えば、例えば、介護中に車イスを押して外出しているときに、もちろん親切な人もいらっしゃるが、そうではない人の方が多い実感があった。

 特に、今は改善しているかもしれないが、交通機関の関係者に適切でない言葉をかけられたときなどは、本当に嫌な気持ちになったこともあった。

 2007年にPew Research Centerというアメリカの調査会社が実施した国際比較調査において、「国や政府は、自力で生活できないとても貧しい人を助ける責任がある」という質問項目に対して、日本では「完全に同意」という回答が15%、「ほぼ同意」まで含めても59%に過ぎず、調査に参加した34カ国の中で最低だったということです。

(『「日本」って、どんな国?』より)

 こういう調査で最下位だったことも、自分自身が、理不尽な出来事で貧しくなる可能性を想像していないのだろうか。という疑問と共に、なんとなく納得できてしまうのが、考えたら、ちょっと悲しいことでもあるのだけど、それは、やはり国民側の責任だけではないのかもしれない。

人々の自活・自助を当然視し、政府はそのための経済的な環境を整えてさえいればよい、社会の中に苦しい人や不平等があったとしても、その是正は政府の役割ではない、という考え方。これは、戦後日本において長年にわたり政権についてきた自民党の政策が、明に暗に発してきたメッセージそのものです。

(『「日本」って、どんな国?』より)

 そして、やはり考えなくてはいけないのは、そうした自民党を長く支持し続けてきたのは、日本国民だった、ということだと思う。そこに、どんな意味や理由があるのかを考えるには、さらに、もう1冊の本が必要になってくるはずだ。

 それは、私が知らないだけで、そうした作品も、すでに世の中にあると思う。機会があれば、そうした本も読みたいし、それによって、現実を把握することについては、さらに理解が深まるとは思うが、自分の無力さに、より重い気持ちになってしまう予感もある。


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